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葛飾北斎 Katusika Hokusai
1760-1849 | 日本 | 絵師 浮世絵・水墨画
日本絵画史上、最高の絵師のひとり。前衛・奇抜にすら感じさせる天性的で独創性豊かな構図や、スケールの大きさを感じさせる独特の風景処理、描く対象に肉薄する高度な写実描写などを駆使した圧倒的な対象表現による作品を数多く制作し高い名声を博す。特に『富嶽三十六景』、『諸国滝廻り』、『富嶽百景』などの錦絵(木版多色摺りの浮世絵版画)や『北斎漫画』、『読本挿絵』などが広く知られているが、肉筆作品や春画などでも非常に優れた作品を残している。また北斎の手がけた作品は歌川広重の作品と共に、ジャポニズム(日本趣味)として
モネ、
ホイッスラー、
セザンヌ、
ゴッホなど
印象派〜
後期印象派の画家たちに強く影響を与えており、現在でも国内のみならず諸外国でも極めて高い評価を受けるなど、日本を代表する絵師(画家)として確固たる地位を築いている。北斎は「画狂老人卍」など30回にも及ぶ改号でも理解できるよう、北斎は90年にも及んだ(当時としては非常に長い)生涯の中で多様に画風を変化させていることも特筆すべき点である。1760年(宝暦10年)下総国本所割下水に生まれ(幼名に「時太郎」と名づけられる)、6歳頃から絵に興味を持ち始め、貸本屋の小僧を経て14〜15歳頃に彫刻家某の従弟となる。その後、一時的に実家へと戻り、1778年(安永7年)の時に当時、写実的役者絵で人気の高かった浮世絵師・勝川春章の弟子入りし、才能を本格的に開花させる(入門の翌年には勝川春朗を拝命している)。1792年(寛政4年)、師・勝川春章が没すると同年又は翌年に何らかの理由で同派を破門されるが、1794年(寛政6年)には春朗号を廃して琳派の創始者である俵屋宗達一派の流れを汲む北斎宗理を襲名、画風が一変する。その後、1798年(寛政10年)頃に宗理号を二代目へと門人であった宗ニへと譲り、以後、万物(自然)を唯一の師と崇めるようになる。その後、1805年(文化2年)から葛飾北斎号を用い始め、1830年(天保元年)頃まで読本挿絵や肉筆画、『北斎漫画』に代表される絵手本などを手がけ絵師としての地位を磐石にするほか、葛飾一派の様式を世に広く知らしめる。おそらく1832(天保2年)年頃に世界的にも名高い連作錦絵『富嶽三十六景』を刊行(※刊行年には諸説あり現在も議論が続けられている)。その後、『百物語』や『諸国滝廻り』、『富嶽百景』など絵師の代表作となる錦絵を完成させ、特に『富嶽百景』初編跋文(後書き)では「…73歳でようやく鳥、獣、虫、魚の骨格や、草木の造形の何たるかを、幾らかは知ることができた。…このまま精進すれば90歳で奥義を極め、100歳で神妙の域を超えるのではないか。…長寿の神よ、願わくば私の言葉が偽りでないことを見ていてください。」と画業への尋常ならざる決意や意欲、執着を示している。晩年期となる1834(天保5年)年頃から肉筆画(浮世絵肉筆)を手がけるようになり、錦絵時代には見られない新たな絵画世界を確立するものの、1849(嘉永2年)年、90歳の時に江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。なお北斎は生涯中、実に93回も転居をおこなっていたことが知られている。