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狩野山楽 Kanō Sanraku
1559-1635 | 日本 | 絵師 京狩野派 水墨画・金碧画
16世紀後半から17世紀中期まで活躍した安土桃山時代を代表する狩野派の絵師であり、京狩野家の始祖。師であり養父でもあった狩野派随一の天才
永徳の流れを組む力強い表現(大画様式・大画方式)による障壁画や襖絵などを手がけ名を馳せる。その表現は、今日、師
永徳の正統な後継としての評価を得るに至っている。また後年から晩年にかけては古典・故実に倣う知性的な表現を取り入れ独自的な画風を確立し、養子山雪へと続く狩野派の新境地を開いた。1559年、武家一族で浅井長政に仕えていた木村永光(※父永光は
永徳の祖父である狩野元信の弟子でもあった)の息子として生を受け、絵師としての素養を身に着ける。浅井長政が織田信長によって滅ぼされた後は父永光共々、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同氏の推挙によって
狩野永徳の門人となる。
永徳から大画様式を学び絵師としての才能を開花させ、数年後には
永徳と父子の儀を交わす。1590年に
永徳が死去した後は秀吉、秀頼の命により御用絵師として大阪城の障壁画(現在は消失)など数多くの作品を手がけた。豊臣家が滅亡した後は徳川家の仕事にも従事するも、江戸で活躍していた同門
狩野探幽の台頭もあり、山楽を祖とする京狩野家は不遇の時代を迎えることとなった。1635(寛永12)年8月、死去。享年77歳。