Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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狩野探幽 Kanō Tanyū
1602-1674 | 日本 | 絵師 江戸狩野派 水墨画・金碧画




狩野派400年の歴史の中でも類稀な才能を有した同派随一の絵師であり、江戸狩野派の始祖。偉大なる祖父永徳が築き上げた戦国武将好みである画面からはみ出さんばかりの絢爛かつ豪壮な桃山様式から、画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした小気味の良い軽妙で詩情性豊かな表現を用いて独自の美の世界を確立。天下太平の世となった江戸時代に相応しいその美の世界は同時代の美意識に決定的な影響を与えたと同時に、江戸幕府の御用絵師として狩野派一族の地位を不動のものとした。御用絵師としてその類稀な手腕を遺憾なく発揮した障壁画に代表作は多いものの、水墨を用いた掛軸や絵巻物、歌仙絵でも傑出した作品を数多く残す。また生涯の中で狩野派の伝統的な表現手法のほか、土佐派などのやまと絵や古画などの表現を貪欲に吸収していることや、写実を重んじ写生と模写を欠かさなかったことも特筆すべき点である。また長きに渡る美の探究によって培ってきた幅広い知識による鑑定の力量も優れており、『探幽縮図』として残されている探幽の古画鑑定書は現在でも重要な資料として用いられている。第二次大戦後、狩野派一族による封建的な縦社会を作り上げた張本人として著しく評価が落されるものの、近年では日本美術史においても特に重要な絵師として再評価されている。1602(慶長7)年、永徳の次男孝信の息子として山城国(現在の京都)で生を受け、幼い頃から描く才能の片鱗を見せる。1612(慶長17)年には大御所・徳川家康と謁見、2年後1614(慶長19)年には2代将軍・徳川秀忠の御前で席画、「祖父永徳の再来」と称賛を受けるほか、同年より采女(うねめ)を名乗り始める。1617(元和3)年に京から江戸へと召され幕府の御用絵師となる(後に鍛冶橋門外に広大な屋敷を拝領し自身も鍛冶橋狩野家を興する)。1623(元和9)年、当時の狩野家当主貞信が夭折すると弟安信に宗家を継がせ、狩野宗家を江戸へと移す。また同年に大阪城障壁画制作(現在は消失)、次いで1626(寛永3)年に二条城障壁画制作に携わる。1635(寛永12)年、江月宗玩から探幽斎の号を授かる(以後、俗に斎書き時代と呼ばれる)。良く1636(寛永13)年に徳川家康の誕生から逝去、そして東照大権現として祭られるまでの叙事を描いた「東照宮縁起絵巻」の制作を命じられる。その後、御用絵師として様々な仕事に携わり、1653(承応2)年、52歳の時に自身の初子となる長男探信守政が誕生、溺愛する。1662(寛文2)年、絵師としての最高位である法印を得て(行年書き時代)、名実共に日本画壇の最高峰に君臨するものの、1670年(寛文10)頃から中風を患い制作活動に支障をきたすようになり、1674(延宝3)年に江戸で没する。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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雪中梅竹遊禽図襖


(Bamboo and plum tree in the snow) 1634年
各191.3×135.7cm | 四面・紙本淡彩金泥引 | 名古屋城

江戸狩野様式の創始者であり、同時代を代表する絵師狩野探幽の最高傑作のひとつ『雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)』。現在、国の重要文化財に指定されている本作は、名古屋城に徳川家光が上洛の途中で立ち寄った時の迎賓の部屋として新築された≪上洛殿三の間≫の装飾襖の北側4面として、1634(寛永11)年に制作された作品である。画面右側には雪が積もり頭を垂らす若竹と老梅の太い幹、そして真っ直ぐ天へと伸びる若梅の枝が配されている。老梅の幹は左斜め上へと枝を伸ばしているが画面のほぼ中央付近で左斜め下へと枝を落している。老梅の幹から枝の先端にかけて二等辺三角形が形成されており、画面右側の垂直に延びる若梅の枝と見事に呼応している。さらに老梅全体は画面の中に品良く収まっており、これら江戸狩野の独自的な表現様式は、しばしば祖父永徳の代表作『檜図屏風』のと比較されている。さらに本作において最も重要視すべき点は二羽の小禽(小鳥)の存在と、余白を存分に生かした詩情性の表現にある。画面最左には老梅の枝先から飛び立ったのであろう一羽の小禽が描かれているが、振り向くような仕草を見せる小禽の視線は、老梅の枝先と交わるように描かれており、空間的な誘引を導き出している。この小禽と老梅の枝先の上下、そして画面右側の奥(遠景)へと飛び去る小禽の上部には余白空間が十二分に満たされており、本作の詩情性を強調させる効果を生み出している。探幽33歳の時に手がけられた本作の程好く画面内へ収める全体の構図と余白部分による抒情性と緊張感の構築は、絵師が築き上げた独自の美の世界観そのものであり、今も観る者を魅了し続ける。なお画面中央やや右寄りに鳥の尾のみが描かれているが、本来は枝に留まる尾長鳥が描かれていたと推測されている(完成後、何らかの理由で損傷し修復したと思われる)。

関連:『雪中梅竹遊禽図襖』全体図左隻拡大図右隻拡大図
関連:狩野永徳作 『檜図屏風』

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四季松図屏風


(The four seasons of pine trees) 1641-1646年頃と推測
各156.5×367cm | 六曲一双・紙本金地着色 | 大徳寺(京都)

稀代の天才絵師、狩野探幽が手がけた屏風絵の傑作、重要文化財『四季松図屏風』。異論も多いものの一般的には1641年から1646(嘉永18-正保3)年頃に制作された(探幽40代前半の作品)と推測されている本作は、四本の≪松≫の多様な姿のみを描いた作品で、単一の画題で四季を表すという大和絵の手法を取り入れた作品の代表的作例としても特に重要視されている。右隻となる画面最右側に若木を思わせるような天へと伸びる春の松が描かれており、その隣には太く雄々しい幹を屈曲させた立派な夏の松が流水を従えるように堂々と配されている。そして左隻右側には赤々と紅葉した蔦を絡ませた見事な姿の秋の松が悠々と配され、その左側(画面最左)に白雪が降り積もった詩情的な冬の松がその身をくねらせる様な姿態で描き込まれている。本作にはこれら四本の松と季節物以外の余計な要素を一切廃した瀟洒な表現の極みが表れており、特に十分過ぎるほど空間が確保される金地余白の大胆な活用や、単純簡素で清潔爽快な構成は探幽が研究を重ねた大和絵と自身の独特の美の世界の統一的融合が明確に感じられる。また本作の四本の松に人生の四段階、つまり四本の松を幼少期(春)、青年期(夏)、壮年期(秋)、老齢期(冬)と四季に喩えたと指摘する研究者も多く、そのような観点から本作には探幽の内面的傾向や心象を超えた精神的世界観を導き出すことができる。

関連:『四季松図屏風』全体図左隻拡大図右隻拡大図

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桐鳳凰図屏風

 (Phoenix and Paulownia) 17世紀中頃
各158.2×377.6cm | 六曲一双・紙本金地着色
サントリー美術館(東京)

17世紀の江戸を代表する狩野派の絵師、狩野探幽の傑作『桐鳳凰図屏風(きりほうおうずびょうぶ)』。様々な説が唱えられているものの、一般的に六代将軍徳川家綱(又は親藩徳川家)の婚礼の際に制作されたとする説が有力視される本作は、古代中国の伝説の鳥であり、麒麟、霊亀、応龍と共に四瑞(四霊)として慶事の画題に重宝された≪鳳凰(四瑞では平安を意味する)≫を描いた六曲一双の屏風絵で、鳳凰は梧桐の樹に棲むと伝えられていることから、鳳凰を描く際には桐も対の画題として一緒に描かれる。右隻には五色絢爛な羽毛が非常に美しい番いの鳳凰と幼鳳が仲睦まじそうに配されており、中央には穏やかに流れる流水が、画面右側には重厚風靡な梧桐と岩が、そして画面上部には金砂子を用いた黄金に輝く雲が配されている。そして左隻には白い羽毛の鳳凰が視線を交わらすかのように番いで描かれ、一方は硬質的な岩の上で身体を休め、もう一方の鳳凰は優雅に宙を舞っている。流水は上下を分けるかのように並行的に配され、画面最左側には薄紫色の可憐で清楚な花を咲かせた梧桐が慎ましやかに描き込まれている。画面全体に金箔を押した金地濃彩の表現が豪奢で優美な雰囲気を醸し出すものの、祖父永徳の桃山様式とは異なり、満ちるほど用いられた余白と曲線的な構成要素の配置に、軽みの極みとも言える瀟洒淡白な探幽様式の典型を見出すことができる。また本作は狩野派における形の継承(戦後、狩野派批難の大きな要因となった粉本)を考察する上でも特に重要視される作品で、本作とほぼ同構図の屏風絵を17世紀後半に狩野常信が、19世紀初頭には狩野伊川栄信が制作している。

関連:『桐鳳凰図屏風』全体図左隻拡大図右隻拡大図

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