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ジャン=バティスト・アルマン ギヨマン
Jean-Baptiste Armand Guillaumin
1841-1927 | フランス | 印象派
印象主義時代に活躍した同派を代表する画家。主に風景画を手がけるが裸婦像や静物画も制作している。ギヨマン作品の大半の画題はパリとその近郊での都市景観や労働者にもたらされた近代性、田舎や荒野的風景、家庭的情景の三つに分類することができる。様式は初期の印象主義的表現に始まり、
ジョルジュ・スーラ、シニャック、
フィンセント・ファン・ゴッホ、
ポール・ゴーギャンなど新印象派や後期印象派らの画家たちとの交友を経た後、後期から晩年にかけては色彩の鮮明性と装飾性が際立つようになり、その大胆な色彩の使用による独自的な様式はアンリ・マティスなどフォーヴィスム(野獣派)の画家らの先駆となった。またギヨマンは印象派の画家の中では最も長命であり、20世紀を生きた最後の印象派の画家としても知られている。1841年パリで生まれ学生の頃に後の有力な美術収集家ミュレ(ウジェーヌ・ムーニエ)やウータンと出会う。15歳(1856年頃)の時に叔父が営む服飾店に勤めながらパリ市内の夜間の写生学校に通う。1860年、パリ=オルレアン鉄道に転職。翌年、余暇にアカデミー・シュイスで絵画を学び始め、
カミーユ・ピサロ、
ポール・セザンヌと出会うほか、夜に絵画を制作し始めるようになった。1863年には落選者展に絵画を出品、この頃にはカフェ・ゲルボワの常連となっている。1866年、パリ=オルレアン鉄道を退職し
ピサロと共に戸外制作に取り組む(画業で生計を立てる)も成功せず、再びパリ市の土木課に就職、橋や道路を管轄する管理職に就く。この仕事は当時の社会の底辺的な仕事であったが夜間のみの勤務であった為にギヨマンは日中、絵画制作に取り組むことができた。1874年の第一回印象派展に参加、以後、同派の絵画展に6回参加する(1874年、77年、80年、81年、82年、86年)が同展では当初は
エドガー・ドガや
クロード・モネに拒否されるも
ピサロが擁護し事なきを得た。またこの頃(1884年)若きシニャックに出会う。その後、独立派展、アンデパンダン展(無審査展)などに参加しながら制作を続ける日々が続くも、1891年、宝くじに当選。10万フランの大金を手にし生活にゆとりが持てるようになると仕事を辞め、絵画制作に専念するようになる。1890年代から晩年はクローザンに移住し、個展の開催やオランダに2ヶ月滞在しながら制作をおこなうが、1920年頃からは創作力が激減。1927年、生地であるパリで死去。享年86歳。