■
狩野山雪 Kanō Sansetsu
1590-1651 | 日本 | 絵師 京狩野派 水墨画・金碧画
17世紀の京都で活躍した京狩野派を代表する絵師。奇矯・奇怪とも評される垂直・水平を強調した幾何学性の強い理知的な装飾と、古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する斬新な画面構成で数多くの作品を制作。独自性が際立つ山雪の諸作品は近年、高い支持を集めており、再評価が進んでいる。1590年(又は1589年)に九州肥前に生まれ、幼少期に父と共に大阪へ移住。1605年(慶長10年)16歳の頃に狩野山楽に弟子入りし、同氏の許で修行時代を過ごす。その後、山楽の娘である竹と結婚し同家の婿養子となる。1631年(寛永8年)、初期の代表的な仕事である天球院方丈障壁画の制作に携わるほか、同年、息子永納を授かり公私共に充実した日々を過ごす。1635年(寛永12年)、師山楽の死去に伴い正式に家督と京狩野派を継ぐ。以後、妙心寺、天祥院、東福寺などのための画作など、京狩野において山楽時代からの重要な庇護者であった九条家の下で京の重要な仕事に携わるが、1641年(寛永18年)、
探幽を始めとした江戸狩野派が手がけた京都御所障壁画制作には参加せず、狩野一派の中で急速に地位を低下させる。1647年(天保4年)九条家の支援で法橋位を授かり、一定の社会的地位を得るものの、1648年から1651年の間に何らかの理由で拘置所に入れられる(※これも九条家の尽力により特赦を受ける)など晩年期は不遇な生活を余儀なくされ、1651年に死去。なお山雪が草稿を手がけ、息子永納が完成させた「本朝画史」は日本最初期の画家列伝として知られる。