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歌川広重 Utagawa Hiroshige
1797-1858 | 日本 | 浮世絵師
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した日本を代表する浮世絵師のひとりであり、日本絵画史上最高の風景画家。対象をありのままに捉える写実的描写の中に四季時節の抒情性を醸し出す独自の景観表現による錦絵を手がけ民衆から高い支持を集める。また遠近を巧みに強調した独特の構図や鮮烈な色彩表現などはジャポニズムとして19世紀の欧州を席巻し、特に
後期印象派の画家
フィンセント・ファン・ゴッホは広重の最高傑作のひとつ≪名所江戸百景≫の『
亀戸梅屋敷』と『
大はしあたけの夕立』を模写するほど絵師に陶酔していた(※
ゴッホによる模写作品『
日本趣味 : 梅の花』『
日本趣味 : 雨の大橋』)。名所絵師として名を馳せた広重であるが画業の初期には美人画や役者絵、さらには『色重』の隠号で春画も手がけている。1797年(寛政9年)定火消の同心人を務めていた江戸幕府の御家人安藤源右衛門の長男として江戸で生を受け、幼少期から絵に興味を示す。1809年(文化6年)、両親を亡くし家督を継ぐ。1811年(文化8年)、当時の人気絵師歌川豊国に入門を希望するものの、同氏の下へは非常に多くの弟子志願者が集まっていた為に断られ、同じ歌川一門の歌川豊広に弟子入り。翌1812年(文化9年)には師豊広より≪広重≫の画名を許され絵画界にデビューを果すが、人気を得ることは叶わず不遇の時代を過ごす。1823年(文政6年)家督を親族に譲り絵師として生きることを決意、その後、連作錦絵≪東都名所≫などを発表するなど風景絵師として本格的に活動をおこなう。1833〜36年頃(天保4〜7年)代表作≪東海道五拾三次≫を刊行、爆発的な人気を博す。その後、街道第二作目として≪木曾街道六拾九次≫を始め、≪江戸近郊八景≫、≪京都名所≫、≪近江八景≫など次々と発表し名所絵師としての地位を不動のものとする。1845年頃から晩年頃(弘化〜嘉永、安政年号)にかけては圧倒的な人気による濫作のため作品の質が低下するものの、最晩年に手がけた≪名所江戸百景≫では絵師の衰えぬ作品への意欲を感じることができる。1858年(安政5年)おそらく流行り病であったコレラにより死去。