Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ジャン=バティスト・グルーズ Jean-Baptiste Greuze
1725-1805 | フランス | ロココ美術・新古典主義




近年、再評価が進む新古典主義萌芽期の重要な風俗画家。感受性豊かな心情の動きを強調的に描写しつつ、現実的側面を捉えた風俗画を制作し、特に市民階級層の人々から支持を集め一躍名を馳せる。その名声は同時代随一の画家ジャン・オノレ・フラゴナールと並ぶほどであったが、1780年以降、急速に評価を下げ、死後忘れられる存在となった。画家自身は歴史画家としての成功を望んでいたものの、王立絵画・彫刻アカデミーからは≪風俗画家≫として迎えられた。その為、作品の多くは道徳的主題に基づいた風俗画や、堅実性を感じさせる肖像画、そして寓意性を漂わせたあどけない少女像作品が大半であるが、歴史画も残されている。1725年、ブルゴーニュ地方南部の都市トゥルニュで生を受け、リヨンで同地の画家グランドンに絵画の手ほどきを受け、1750年頃にパリへ出る。1755年に風俗画家として王立絵画・彫刻アカデミー準会員へ入会、アカデミーではロココ様式の巨匠シャルル=ジョゼフ・ナトワールに師事。その後、サロンへ数点の作品を出品し批評家や民衆から称賛の声を受け、(アカデミー大賞を受賞することなく)イタリアへ1年間ほど留学し、1761年、代表作『村の花嫁』をサロンへ出品し名声を確立する。その後、グルーズの作品を「繊細で感受性に富んだ魂」と称賛したディドロなど著名な批評家や文化人などと交流しつつサロンへ作品を出品し続け、益々名声を高めるものの、1769年、王立絵画・彫刻アカデミーから歴史画家として承認されることはなく風俗画家としてアカデミー正会員に迎えられる。そのことに失望したグルーズは同年以降、サロンを離れ、自身を支持する市民階級層のために作品を手がけるようになった。1770年代はその名声を堅持していたものの、1780年代に入ると急速に評価を下げ、1805年にパリで死去。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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村の花嫁

 (Accordée de village) 1761年
92×117cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

18世紀後半を代表する風俗画家ジャン=バティスト・グルーズ随一の代表作『村の花嫁』。1761年のサロンに『結婚』という名称で出品され、絶大な支持を集めた後、当時の建築総督マリニが39000リーヴルという破格の金額で購入した本作は、ある村において≪結婚する娘と一家、そして花婿≫の光景を描いた風俗画作品である。画面左側では娘(花嫁)との別れを悲しむ母親や妹に腕や肩を掴まれた、節目がちな一家の娘が配されており、その情景からは物語画のように多少芝居がかり感傷的過ぎる節は感じられるものの、≪娘の嫁ぎ≫という別れの悲しさが十分伝わってくる。一方画面右側では花婿に持参金を手渡す椅子に腰掛けた娘の父親や、結婚の契約書を作成する村の公証人、さらには先に結婚する妹に対して嫉妬心を抱く姉の姿が描き込まれるなど、≪結婚≫そのものの世俗的で現実的な側面と人物の複雑な心理状態が見事に描写されている。そして画面下部には数匹の雛鳥の世話をおこなう雌鳥(親鳥)が描かれており≪結婚≫への教訓的寓意が込められている。本作で最も注目すべき点は、登場人物の複雑な心理状態の描き分けの秀逸さにある。画面左側では結婚というものにおける≪別れ≫の心理や感情が、右側では結婚というものの≪制度≫に関する現実的側面が人物の動作や仕草、表情などによって見事に描き分けられており、これまでの風俗画にはみられないこのような物語性(ストーリー性)を感じさせる風俗画表現は当時、批評家たちから非常に高い評価を与えられた。

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キューピッドの祭壇で祈る少女

1767年
(Jeune fille qui fait sa prière au pied de l'autel de l'Amour)
145.5×113cm | 油彩・画布 | ウォーレス・コレクション

ロココ美術時代と新古典主義時代の狭間に生きた、18世紀フランスの画家ジャン=バティスト・グルーズの傑作『キューピッドの祭壇で祈る少女』。1767年に制作され2年後のサロンへ出品された本作は、グールズが最も数多く手がけた≪少女像≫と古代的モティーフを組み合わせた古典主題作品で、しばしば風俗画家ではなく歴史画家としての成功を熱望していた画家の野心的表現の成長が指摘される。画面中央には、恍惚的(放心的)な表情を浮かべながら一心に愛の神エロス(ローマ神話におけるアモル・キューピッドと同一視される)の像に祈りを捧げるあどけない少女が配されており、その喜びと陶酔に満ちた表情や少女の身に着ける肌が薄く透き通る衣服の豊かな描写は観る者を強く惹きつけ、さらに薄暗く鬱蒼とした背景の森林が彼女とキューピッド像の関係性を強調することに成功している。そしてレリーフが施された祭壇の下には番の鳥や色彩豊かな薔薇、黄金の水差しなどが配されており、少女とキューピッド像の対角的均整が保たれている。キューピッド像は同時代の彫刻からの引用が、少女の身に着ける衣服や祭壇、水差しなどには古代ギリシアからの着想が認められており、主題に対するグルーズの深い考察と研究を見出すことができる。公開時、サロンでは狭すぎる奥行きや無理に歪む背景など空間構成的な矛盾や、少女の演劇的な描写に批判が集中したものの、その後、ショワズール公爵が同氏の寝室(青孔雀の間)のために購入している。

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恩知らずの息子(父親の呪い)

 (Fils imgrat) 1777年
130×162cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

18世紀のフランスで活躍した風俗画家の巨匠ジャン=バティスト・グルーズの傑作『恩知らずの息子(父親の呪い)』。本作は1765年に水彩で手がけた2点の対画作品『恩知らずの息子(父親の呪い)』『罰せられた息子』を、画家自らが1777年に油彩画として再制作した作品のひとつで、画題として当時フランスで社会問題化していた≪新兵募集に身売りする若者≫が取り上げられている。画面中央左側には、放蕩三昧を尽くし、挙句の果てに新兵の募集へ己を身売りした若い男が母親の制止を振り切り、家を出ようとしている姿が描かれている。若い男の周囲には抱きつき家出を阻止するヴェールを被った母親や、軍隊入りを辞めるよう懇願する妻、そして足下に縋りつく幼い息子が配されているが、最右部にはまるで無頼漢のような兵卒が描き込まれている。そして画面左側には息子の行動に激怒し、椅子に腰掛けながら勘当を示すかのような(※呪いをかけるような)仕草を息子に向ける父親と、父の腕を押さえながら必死になだめる娘が配されている。本作に示されるやや大げさな登場人物の仕草や強い光彩は本画題の物語性や劇的様子を強調する効果を生み出しており、観る者を強く惹きつけさせる。さらに時事を巧みに反映させた道徳的展開はグルーズの十八番とも言える作品構成であり、本作には画家の典型が示されている。なお油彩画版となる本作は制作された1777年に画家のアトリエで公開され、民衆から好評を得たと伝えられている。

関連:対画 『罰せられた息子』

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罰せられた息子

 (Fils puni) 1777年
130×162cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

18世紀のフランスで活躍した風俗画家の巨匠ジャン=バティスト・グルーズの傑作『罰せられた息子』。本作は1765年に水彩で手がけた2点の対画作品『恩知らずの息子(父親の呪い)』『罰せられた息子』を、画家自らが1777年に油彩画として再制作した作品のひとつであり、放蕩三昧の末に自身を新兵応募に身売りする当時フランスで社会問題化していた若い男を主題とした『恩知らずの息子(父親の呪い)』のその後として、放蕩息子が対立していた父の臨終に帰還する場面が描かれている。画面左側へは息子と対立していた頃の面影を全く感じさせないほど痩せ衰えた亡き父のベッドに横たわる姿が配されており、その手前には義父の死に天を仰ぐ放蕩息子の妻や子供、さらに父の足下で泣き崩れる幼い少年が、画面奥へは死した父へ兄(放蕩息子)の帰還を知らせるかのように何か呼びかける娘が鬼気迫る表情で描き込まれている。そして画面右側へは自身の愚かな行いを悔いるかのように手で涙を拭いながら自宅へ帰還する放蕩息子と、それを温かく受け入れ、家の中へと迎え入れる老いた母親の姿が感情豊かに配されている。対画となる『恩知らずの息子(父親の呪い)』同様、強い明暗対比と通俗的にすら感じられるほど非常に誇張された感傷性は、本作の訓示的かつ道徳的な意味合いを効果的に強調することに成功しており、観る者に深い感銘を与える。なお本作も1777年に画家のアトリエで公開され、民衆から好評を得たと伝えられている。

関連:対画 『恩知らずの息子(父親の呪い)』

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