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ジャン=マルク・ナティエ Jean-Marc Nattier
1685-1766年 | フランス | ロココ美術・肖像画家
18世紀のルイ15世統治下のフランスで最も成功した肖像画家のひとり。装飾的で豪奢な肖像表現の中にメランコリックな甘美性を加え、明瞭で流麗な輝きを帯びた色彩による対象(モデル)の優美性や美しさを繊細に強調した(女性の)肖像画で名を馳せる。特に神話的な要素や寓意を取り入れた肖像表現、所謂、神話的肖像画は、宮廷内の流行とも合致し、肖像画家としての自身の地位を確固たるものとしただけではなく、肖像画自体の地位をも歴史画などと並ぶ高位まで引き上げた。巨匠
ピーテル・パウル・ルーベンスや
フランス古典主義時代の宮廷を代表する画家
シャルル・ル・ブランなどの影響を受け作風を形成するも、
イアサント・リゴー、ジャン・ラウーなど同時代の画家らの肖像様式も積極的に採用している。1685年、父マルク・ナティエと母マリー・クールトワの間にパリで生まれる。両親共に肖像画家であるほか、名付け親が
フランス古典主義時代の画家
ジャン・ジュヴネとなるなど、画家として恵まれた環境で育つ。同氏の援助により画業を学び、当時の国王ルイ14世からも特別な計らいを受ける。父マルク・ナティエが王から許可を得て、
ルーベンスによる連作『
マリー・ド・メディシスの生涯』の版画化をおこなう際、その下絵制作に参加し、ひとりの画家としての歩みを始める。1717年、ロシア皇帝ピョートルI世(大帝)の招きでオランダに向かい、肖像画などを手がける。翌1718年『
メドゥーサの首を見せてフィネウスを石に変えるペルセウス』で王立絵画・彫刻アカデミーへ入会。当初は歴史画家として同会へ入るも、1720年代初頭でより実入りの多い肖像画を手がけるようになり(宮廷の貴族ら)注文主から高い評価を得て、
イアサント・リゴーに続く肖像画家の第一人者として活躍。1740年代からは王室の注文も数多くこなすようになり、1743年、正式な王室肖像画家として認められる。以後1760年代までの20年間は、同時代最高の肖像画家のひとりとして成功を収める。晩年は当時のフランスの哲学者ドゥニ・ディドロなどから「華麗さを際立たせ過ぎる」などと批判を受けるほか、創作意欲の衰えなどから作品数が減少し、1766年、生地であるパリで死去。ロココ・スタイルとも呼べるナティエの神話的肖像表現は、金銭的な理由により諦めざるを得なかった歴史的主題への画家の愛着が成し得た展開とも推測されている。