■
フェルナン・クノップフ Fernand Khnopff
1858-1921 | ベルギー | 象徴主義
ベルギー象徴主義において指導者的存在となった同派最大の画家。非現実的で夢想的な世界観や神秘的な場面描写、静寂性と虚無感が混在する独自の絵画表現で自身の様式を確立し、100点あまりの油彩画のほか、パステルや色鉛筆などを用いた作品を数多く残す。またクノップフは写真にも興味を示し、積極的に自身の作品へ(直接的・間接的に)取り入れているほか、挿絵、衣装デザインなども手がけている。クノップフの死、性、眠りなどモチーフを独特の死生観・厭世感によって表現した絵画作品は同国の象徴主義の指針的役割を果すほか、諸外国の芸術家にも影響を与えた。1858年、ベルギーのグレムベルゲン=レ=テルモンドで由緒正しき旧家の長男として生を受け、生後まもなく父の王立裁判所の検事に任命伴い大都市ブルッヘ(ブルージュ)へ移住。幼少期を同地で過ごし、1875年にブリュッセル自由大学法学部へ入学するも中退。大学では後のベルギー象徴主義文学の代表的存在となるマックス・ワラーやエミール・ヴェラーレンと親交を重ねる。翌1876年に改めてブリュッセル王立美術アカデミーへ入学し本格的に絵画を学ぶ。その間、数回パリへ滞在し、同地で
ロマン主義の大画家
ウジェーヌ・ドラクロワや、
新古典主義最後の巨匠
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルに強く感銘を受けるほか、フランス象徴主義を代表する画家
ギュスターヴ・モローやエドワード・バーン=ジョーンズなど
ラファエル前派の画家らと知り合い、次第に象徴主義へと傾倒してゆく。その後、「レソール」展や「二十人会」の創設に参画し、次々と作品を出品しながら自身の様式を確立してゆく。1893年の二十人会解散後は、神秘主義者ジョセファン・ぺラダン率いる薔薇十字会の招待を受け年次展へ参加する。また定期的にイギリスへ赴き
ラファエル前派の画家たちと交友を重ねるほか、
グスタフ・クリムトを頂点とするウィーン分離派とも関係を深め、1898年、第1回ウィーン分離派展へ傑作『
愛撫』を出品、
クリムトの作風形成にも影響を与えた。20世紀に入ると、ベルギー象徴主義の代表的存在として名声が確立し確固たる地位を得て、1913年にはベルギー王立美術アカデミー絵画部門の会員に選出されるものの、1921年にブリュッセルで死去。なお画家は1908年に結婚しているが、妹マルグリットや薔薇十字会の首領ジョセファン・ぺラダンとの親密な関係も画家の生涯において特筆すべき重要な点である。