Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau
1826-1898 | フランス | 象徴主義




フランス象徴主義における先駆的画家。濃厚にも軽快にも感じられる個性的な色彩表現と、女性的と比喩される繊細な線描による華麗で神秘的な独自の様式を確立。手がけた主題(画題)は歴史画や神話画が大半であるが、その解釈は画家独特のものであり、幻想性と宝石細工のような美しさに溢れている。また大作の多くは油彩画であるが、水彩による習作やデッサンなどにも画家の卓越した力量が示されている。1826年、建築家(建築技官)であった父ルイ・モローと音楽家の母ポーリヌ・デムティエの間にパリで生まれ、幼少期からデッサンなどで才能を示す。1839年、パリのコレージュ・ド・ロラン(ロラン中学校)へ寄宿生として入るも年少であった為に馴染めず。翌1840年、妹カミーユが死去、激しい衝撃を受ける。1846年、国立美術学校に入学し、新古典主義の画家フランソワ・ピコの教室で学ぶ。1849年、ローマ賞の獲得を望むが失敗。1850年、影響を受けていたロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワに進路について相談するほか、数年前にシャセリオーが手がけた会計監査院の壁画(1871年のパリ・コミューンで破壊されている)を見て強く感銘を受け、ピコの教室を離れて同氏に師事、画家としても大きな影響を受ける。1852年、ピエタ(現在は行方不明)を官展(サロン)に出品、好評を博す。その後、社交界へ頻繁に出入りするも、1856年、シャセリオーが死去。親友でもあった師の他界に大きな打撃を受け、1857年には社交界と縁を切り、数ヶ月間、自宅に引き篭った後、イタリアへと旅立つ。ローマ、フィレンツェなどを滞在し、ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ、ソドマ、ヴェロネーゼコレッジョティツィアーノマンテーニャヴァン・ダイクホルバインなど過去の巨匠らの作品の模写をおこない、ドラクロワやシャセリオー風の様式を脱し、独自のスタイルを確立するきっかけを得る。また同地でエドガー・ドガらとも知り合う。1859年、パリへ帰国。1864年、十年ぶりにサロンへ作品を出品。復帰作『オイディプスとスフィンクス』が好評を博す。その後、サロンや個展、万国博覧会などで作品を展示し、画家としての名声を確固たるものとしてゆくも、画家自身は孤高の存在であった。1888年、美術アカデミー会員に選出、1891年からはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授となり、20世紀を代表する画家ジョルジュ・ルオーや野獣派(フォーヴィスム)の大画家アンリ・マティスらを教える。1898年、癌のために死去。なお生涯独身であったモローは人間嫌いだと言われていたが、今日では当時台頭していた写実主義や印象主義の風潮を拒否した為だとされている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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オイディプスとスフィンクス

 (Œdipe et le Sphinx) 1864年
206.4×104.7cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

19世紀フランス象徴主義の先駆者ギュスターヴ・モロー随一の代表作『オイディプスとスフィンクス』。イタリアへでの修行旅行を終えたモローが、10年ぶりにサロンへと復帰した1864年に制作された本作は、テバイの住人を苦しめていた女性の頭部と獅子の肉体を持つ怪物スフィンクスに「朝は4足、昼は2足、夜は3足で歩むものは何か?答えられたらテバイの地を与えよう。答えられなかったらお前を殺す」と謎をかけられる(未来のテバイ王)オイディプスの最も有名な神話上の逸話のひとつ≪オイディプスとスフィンクス≫を主題にした作品である。画面中央よりやや右側に描かれるオイディプスは、息子に殺害されるとの(太陽神アポロンの)神託を受けたテバイ王ライオスによって幼少期に殺されかけたものの、家臣によって救い出され美しい青年に成長したとされており、本作でもその端整な姿は踏襲されている。画面のほぼ中央に描き込まれる怪物スフィンクスはオイディプスの身体にしがみつきながら挑発的に見つめており、その視線にはある種の力強さと恐怖を感じさせる。さらに画面下部には、今まで謎かけに答えられず怪物スフィンクスに殺害された者たちの土気色の亡骸(手足)が描き込まれており、この危機的状況における緊張感を強調している。本作で最も注目すべき点は、オイディプスとスフィンクスの関係性にある。獅子の肉体をオイディプスの身体にしがみつけ挑発的な視線を向けるスフィンクスは猛々しく逞しさを感じさせるのに対し、オイディプスは端整で美しくありながらも答えるしか生き残る術が無く、非常に無力的である。このような男性の受動的な扱いは、同主題のみならず主題の取り組みとしても過去に類が無く、当時の時代的傾向が反映されているとも捉えることができる。各構成要素の表現にはアンドレア・マンテーニャペルジーノヴィトーレ・カルパッチョなどルネサンス期のイタリアの巨匠らの影響を感じさせるものの、このような非伝統的かつ精神性深い場面描写にはモローの独自性を強く見出すことができ、サロン出品時でも批評家たちから高く評価され画家の名を一躍有名にした。

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イアソン

 (Jason) 1865年
204.1×115.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

象徴主義の孤高なる巨匠ギュスターヴ・モロー初期の典型的な作例のひとつ『イアソン』。1865年のサロン出品されメダルを獲得した作品である本作は、叔父から王位を継ぐために、アイエテス王の宝物である金羊毛皮を守護する怪物を退治するイオルコスの王子≪イアソン≫を描いた神話画作品である。かつて旅行したイタリアで最初に手がけたジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ(通称ソドマ)の同名の作品に基づく模写作品『アレクサンダーとロクサネの結婚』の姿態の流用が認められる本作では、画面中央へ右手を掲げ己の勝利を確信するイアソンの堂々たる姿が配されており、そのすぐ後ろにはイアソンに恋心を抱いたアイエテス王の娘メディア王女が眠り薬(※イアソンはメディアが怪物に眠り薬を飲ませて深い眠りについたところを退治したとされている)を手にしながら寄り添っている。イアソンの足下には折れた槍が刺さり絶命する怪物が配されているが、伝説上では龍とされる怪物は本作では鷲の上半身と獅子の下半身をもつグリフォンの姿で表現されている。ルネサンス期の古典的表現に基づいた優美的なイアソンやメディアの姿態や装飾的で幻想的な場面表現、金杯や盾などの小物類の緻密な描写なども特筆に値する出来栄えではあるものの、本作で最も注目すべき点はイアソンとメディアの関係性にある。本作の主役は題名からも右手を高らかと掲げ勝利を宣言するイアソンであるものの、その姿にはどこか若輩さを感じさせ、背後のメディアに導かれて(操られ)の勝利であるかのような印象すら感じることができる。メディアのイアソンに向けられる視線も恋心が高まりもはや偏執的な愛へと変貌したかの如く、病的な執着性を見出すことができる(事実、その後イアソンは別の女性との結婚を試みるものの、メディアによって別の女性は殺害されてしまう)。このように悲劇的運命にある両者の後の関係性をも予感させるイアソンとメディアの姿が、画家の卓越した表現力によって本作中にありありと示されているのである。

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オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘


(Jeune fille thrace portrait la tête d'Orphée) 1865年
154×99.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

フランス象徴主義の偉大なる巨星ギュスターヴ・モロー随一の代表作『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』。1866年のサロン出品作(その後、国家の買い上げとなった)であり、翌1867年のパリ万博の出展作としても知られる本作は、ギリシア神話に登場する吟遊詩人で、歌と竪琴の名手としても語り継がれる≪オルフェウス≫の首と竪琴を抱きかかえるトラキア(※現ギリシア・トルコの古代の地名)の若い娘を描いた作品である。神話上では、愛妻エウリュディケとの永遠の死別に絶望したオルフェウスは、冥府の秘儀を男性のみに伝え、全ての女性を避けたことが原因で、(トラキアに住む)酒神バッコスの信女たちに八つ裂きにされた後、海に投げ込まれ、その後、トラキア(レスボス島)の若い娘に岸辺に流れ着いたオルフェウスの首と竪琴を拾われたとされており、本作ではその最後の場面が描かれている。画面中央やや左側に配されるトラキアの若い娘は八つ裂きにされ死したオルフェウスの首と艶やかな竪琴を大事そうに抱えながら、穏やかな表情のオルフェウスへと静かに視線を向けている(なお死したオルフェウスの顔面はミケランジェロの彫刻作品『瀕死の奴隷』に基づいている)。モローの生前、パリで民衆が見ることのできた唯一の画家の作品としても知られる本作を制作するにあたり、モローは数点の習作を制作しており、その昇華的効果は、画面全体から醸し出される詩情性や感傷的心情描写で明確に現れている。本作の表現自体は写実的かつ古典的要素が強いものの、幻想性を感じさせる独特の色彩と甘美性すら感じさせる美意識的描写にはモローの類稀な独自性を容易に見出すことができる。さらに本作に描かれるトラキアの娘の(まるで聖母のような)慈しみに満ちた表情には、良き友人であり画家自身も一時期、多大な影響を受けたロマン主義の画家テオドール・シャセリオーの死への哀悼を指摘する研究者も少なくない。

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若者と死

 (Le jeune homme et la mort) 1865年
213×126cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローの代表作『若者と死』。親友であり偉大なる師でもあったロマン主義の画家シャセリオーの死の追悼として1856年からモローが取り組みを始めた本作は、師シャセリオーの面影が残る希望と生に満ちた≪若者≫と、若者に忍び寄る≪死≫を象徴的かつ独創的に描き出した作品で、1865年のサロンに出品された際、多くの批評家たちから称賛を受けた作品としても知られる。画面中央に配される師シャセリオーを理想化された顔立ちの若者は、最も明瞭な光に包まれながら自ら左手で勝利を象徴する月桂樹の冠を被ろうとしているが、右手には死を意味する黄水仙の花束が握られている。若者の背後には柔らかい眠りにつく若い女性が若者へ付きまとうように描かれており、女性左手には限りある時間を意味する砂時計が、右手には絶命を意味する剣が配されている。さらに画面下部には幼児の姿をした聖霊が松明を手にしているものの、その炎は今にも消えそうなほど弱々しい。画家自身、多大な影響を受けた師シャセリオーの若すぎる死(シャセリオーは37歳で死去している)への哀悼の念を、類稀な独創性による幻想的世界観によって表現された本作は1860年代のモローの絵画様式が最も明確に示される作品として、今なお我々に強い感銘を与え続けるのである。なお当時から高い評価を受けた本作は後に水彩などで数多くのヴァリアントが制作されている。

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馬に食われるディオメデス


(Diomède décoré par ses chevaux) 1865年
138.5×84.5cm | 油彩・画布 | ルーアン美術館

フランス象徴主義における孤高の画家ギュスターヴ・モローの代表作『馬に食われるディオメデス』。本作はギリシア神話最大の英雄≪ヘラクレス≫がおこなった12功業の8番目≪馬に食われるディオメデス≫を主題に制作された作品である。本作に描かれる主題≪馬に食われるディオメデス≫旅人を捕らえ己が育成した四頭の人喰い馬へ与えていたトラキア王ディオメデスが、ヘラクレスの策略によって自らが人喰い馬に食い殺される(※四頭の人喰い馬はヘラクレスが生け捕りにした)という逸話で、本場面は四頭の人喰い馬に食われるディオメデスの姿が大きく扱われている。画面中央に配されるディオメデスは己が育てた馬に腕を噛まれ悶絶しながら助けを請うような仕草や表情を見せている。四頭の人喰い馬はまるで狂ったかのように見開いた瞳をディオメデスへ向け襲い掛かっており観る者に恐々とした印象を与える。さらにその周囲へは幾多の死体が乱雑に配されており、人喰い馬の残虐性を強調する効果を発揮している。そして己の馬によって食い殺されるディオメデスの姿を一段高い場所からヘラクレスが傍観的に眺める姿が画面左上に描き込まれている。本作の荒々しい人喰い馬の描写には馬を得意としていたロマン主義の巨匠テオドール・ジェリコーの影響が指摘されている。

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ユピテルとエウロペ(エウロペの略奪)


(Jupiter et Europe) 1868年
175×130cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀のフランスで活躍した象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー作『ユピテルとエウロペ(エウロペの略奪)』。『プロメテウス』と共に1869年のサロンに出品された本作は、フェニキアの都市テュロスの王アゲノルの娘エウロペが侍女らと海辺で戯れる姿を見て、同娘を見初めた主神ユピテルが、白く優美な雄牛に姿を変えてエウロペに近づき、(雄牛に)心を許したエウロペが雄牛の背中に乗ると、雄牛(に姿を変えた主神ユピテル)が駆け出し、そのまま海を渡りクレタ島へと連れ去ってしまったという、古代ローマの偉大なる詩人オウィディウスの詩集≪転身物語(変身物語)≫にも登場する、最も有名な神話≪エウロペの略奪≫を主題に制作された作品で、同サロンでは独創性の乏しさや、形態的不正確性から酷評を受けてしまい、永い間、画家の自宅にて保管されていたことが知られている。本作の画面のほぼ中央へ雄牛に心を許したエウロペの美しい姿が官能性豊かに描写されており、エウロペは雄牛(主神ユピテル)へ身体を預けながら視線をユピテルへと向けている。雄牛に姿を変えた主神ユピテルは顔面のみを人の姿に戻し、エウロペと呼応するかのように視線を交わらせている。本主題の中で最も劇的な瞬間を、画面奥から手前へと翔け迫る雄牛とエウロペによって表現される本作の、やや誇張的で歪な雄牛の首や胴回りの表現(サロン出品当時はこの点が批判された)、人の姿へと戻った美しきユピテルの神々しさに魅了されるエウロペの甘美な感情性なども注目すべき点であるが、特筆すべきはその主題そのものへの取り組みにある。モロー自身が本作に対して「私は美しく高貴なアラベスク模様に惹かれてはいるが、最も重要視したのは主題を≪表現≫することだ」と述べているよう、本作では丹念な筆触によって画面内へ描き込まれる全ての要素が、本主題≪エウロペの略奪≫の詩情性や内面的性格を表す目的で配されており、この確信たる≪表現≫への取り組みこそ、モローが導き出した≪創造≫に他ならないのである。

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プロメテウス

 (Prométhée) 1868年
205×122cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀フランス象徴主義における孤高の巨匠ギュスターヴ・モローの代表作『プロメテウス』。1869年のサロン出品作である本作は、神話上の登場人物で、泥土から人間を想像することのできるティタン神族(巨人族)≪プロメテウス≫が火神ウルカヌスの鍛冶場から炎を盗み出し人間へ与えたことで主神ユピテルの逆鱗に触れ、カウカソス山頂に鎖でつながれ、永遠に肝臓を高貴なる鷲に啄ばまれる罰(肝臓は毎日再生したとされている)を受ける場面≪鎖につながれたプロメテウス≫を主題に制作された作品で、その保守的な作風によってモローの独創性を評価し望んでいた人々から酷評を受けたことでもよく知られている(※モローはこの酷評によって1876年までサロンへの出品を止めてしまう)。画面中央やや左側へ配されるプロメテウスは真横を向け遥か彼方へと視線を向けるかのように、どこか一点を見つめている。この気高く、どこか不可侵性を感じさせるプロメテウスの横顔から本作は予てから『キリストの顔を持つプロメテウス』とも呼ばれている。筋骨隆々とした肉体美ながら主神ユピテルによって両手足は鎖につながれており、ここから逃げ出すことは叶わない。そして画面左側にはプロメテウスの肝臓を残酷に啄ばむ聖なる鷲が配されているものの、その姿は邪悪的な禿鷹を容易に連想することができる。本作で最も注目すべき点は残酷的な場面の中に漂う匂い発つようなモロー独特の甘美性にある。先にも述べたよう本作に描かれるプロメテウスの横顔は一見しただけではティタン神族(巨人族)とは思えぬほど男性的な気品と端整な造形を示しており、逞しい肉体と相まって非常に甘美的な印象を観る者に与える。そこには卑俗な性的隠喩は感じられず、古典的な理想美を見出すことができる。さらに鋭く尖った岩肌が特徴的な垂直が強調されるカウカソス山の幻想的な雰囲気がそれらを強調する効果を生み出している。これらは数年前(1864年)にモローがサロンへと出品した『オイディプスとスフィンクス』の独創性を期待していた人々には、物足りなさを感じさせ、モローの保守的展開が激しく批難される要因となってしまったものの、作品自体の完成度や画家の作品に通じる幻想性は今も色褪せず観る者を魅了し続ける。

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岩の上のサッフォー

 (Sapho sur le rocher)
1872年 | 18.4×12.4cm | 水彩・紙
ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館

偉大なる19世紀フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの代表作『岩の上のサッフォー』。1872年に制作された本作に描かれるのは、紀元前7世紀のギリシャ出身の女流詩人で、モロー自身が詩人女性の代表的存在に位置付けていた≪サッフォー(サッポー)≫の伝説的な悲恋の場面である。本作に描かれるサッフォーは、若く美しい青年ファオンに恋心を抱くものの、ファオンに受け入れられず、あまりの悲しみからレウカディアの岬から身を投げた(投身自殺をした)という逸話を基にして制作されているが、画家自身は数多く制作された一連の≪サッフォー≫を画題とした作品に対して、「私が描くサッフォーは巫女の、特に詩人としての巫女の聖性を念頭に置いている。そしてそれは優美性、厳格性、さらには詩人としての最大の特徴でもある想像性や多様性を人々の心へ呼び覚ますかのような衣服として表現している。」と述べていることからも理解できるよう、サッフォーの悲恋的逸話そのものよりも、詩人としての神秘性や甘美性が重要視されている。画面中央に配されるレウカディアの岬の岩の上へ力無く座り込むサッフォーは、疲れ果てたかのように目を瞑り、悲愴的な表情を浮かべながら(その後の身投げにつながるであろう)物思いに耽っている様子である。画家自身も述べているよう、本作において最も注目すべきサッフォーの身に着ける衣服は赤色を主色としながら、青緑色など寒色や黄金の腕輪など多様な装飾に装飾されており、詩人としての神秘性が強調されている。さらにサッフォーの流線的な姿態と岩々の垂直性が強調された硬質的な対比は、本作の幻想的な背景表現と組み合わされ、見事な象徴的効果を生み出している。

関連:『淵に落ちて行くサッフォー』
関連:『サッフォーの死』
関連:『サッフォー』
関連:『サッフォーの死』

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聖セバスティアヌス(矢を射かけられる)


(Saint Sébastien) 1875年頃
108×138cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀のフランス象徴主義における孤高の画家ギュスターヴ・モローを代表する宗教画作品のひとつ『聖セバスティアヌス(矢を射かけられる)』。おそらくは1875年頃に制作されたと考えられる本作は、ガリア(ローマの属州)出身のローマ兵士で、当時のローマ皇帝ディオクレティアヌスに仕えながらもキリスト教へと改宗し、迫害を受けていたキリスト教徒たちを助けるものの、己がキリスト教徒であることが発覚してしまい皇帝から死刑を宣告された≪聖セバスティアヌス≫を主題に制作された作品で、画家は本作以外にも習作・水彩・油彩などで同主題の作品を数多く手がけている。本作に描かれるのは、聖セバスティアヌスが皇帝から死刑を宣告され矢で射られるという場面であるが、刑の執行後、聖セバスティアヌスは瀕死の状態に陥るものの、聖女イレネの看病によって奇跡的に一命を取り留めたとされている。画面左側に配される聖セバスティアヌスは木の傍に立ち無数の矢に射られながらも右手に持った十字架を高らかと掲げ、主イエスの正当性を主張している。この姿態は1865年に制作されたモロー初期の代表作『イアソン』の姿態を踏襲しており、この刑に対する勝利の意図を含ませている。画面右側には騎乗するローマ兵士らを主に無数の人々が丹念な筆遣いで描き込まれている。これら幻想性と象徴性が漂うモロー独特の表現も秀逸の出来栄えを示しているが、本作で最も注目すべき点は時代考証・史実考証を逸脱させた空想的場面構成にある。伝統的に聖セバスティアヌスが刑を執行されたのはパラティヌスの丘とされていたものの、本作に描かれる建物や風景は古代ローマ遺跡を容易に連想させる。この複数の場所や時代を合成し新たな世界観を構築する術は、画家自身も「想像力を満足させるため、天才ニコラ・プッサンは全く対立する両極端の文明を融合させることに成功した。」と残しているよう、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンの影響を強く感じさせる。

関連:1869年 『聖セバスティアヌス』
関連:1876年頃 『聖セバスティアヌスと天使』
関連:1876年頃 『殉教者に叙せられる聖セバスティアヌス』

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ヘラクレスとレルネのヒュドラ


(Hercule et l'Hydre de Lerne) 1876年頃
179.3×153cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローを代表する神話的世界観の作品『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』。1869年のサロン出品作『プロメテウス』等への酷評から7年ぶりのサロン再出品作としても広く知られている本作は、ギリシア神話において最も有名な英雄のひとり≪ヘラクレス≫がおこなった12功業の2番目≪レルネーのヒュドラ≫を主題に制作された作品である。本主題≪レルネーのヒュドラ≫はエウリュステウス王からレルネーの沼沢地帯に棲みつく猛毒を持った九頭の水蛇≪ヒュドラ≫の退治を言い渡されたヘラクレスが、同地で従者イオラオスの手を借りながらヒュドラの九頭中八頭を焼きながら斬首し、最後に残った不死の一頭を岩下へ埋め王の命令を完遂したという物語で、本作ではヒュドラと対峙するヘラクレスが描き込まれている。画面左側へは棍棒を手にし雄々しく逞しい肉体と強固な意志を感じさせる視線を毅然とヒュドラへ向けるヘラクレスが、画面右側には九つの鎌首を持ち上げ、ヘラクレスに明らかな敵意を示すヒュドラが配されており、両者の間では戦いの前の緊張感が漲っている。そしてヒュドラの周辺には己が殺した死体が散乱しており、観る者へヒュドラの獰猛性と強大な力を連想させることに成功している。さらにヘラクレスとヒュドラの間の岩の谷間から見える、薄く雲のかかった太陽は張り詰めたこの場の空気と、時間的経過を観る者により強く印象付ける効果を生み出している。本作の明暗対比の大きな重厚的光彩表現は1870年代のモローの表現の大きな特徴であり、この点も本作の大きな見所のひとつに数えられる。なお本作は1878年に開催されたパリ万国博覧会へも出品されている。

関連:モロー美術館所蔵 『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』

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出現

 (L'Apparition) 1874-1876年
105×72cm | 水彩・紙 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランスにおいて孤高的な存在であり、かつ象徴主義の先駆者としても見做される画家ギュスターヴ・モローが50歳の時に制作した傑作中の傑作『出現』。『ヘロデ王の前で踊るサロメ』と共に1876年のサロンへ出品され、賛否両論を巻き起こしたことでも知られる本作に描かれる主題は、ユダヤ王ヘロデ=アンティパスの姪で、その後妻ヘロデヤの娘サロメがヘロデ王の前で踊り、褒美として、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)の首を求めたとされる場面≪ヘロデ王の前で踊るサロメ≫であるが、本作では斬首された洗礼者聖ヨハネの首がサロメの目前に出現するという画家独自の解釈に基づきながら、非常に象徴的かつ幻想的に場面を構成しているのが大きな特徴である。近景には、本作の画題的主要素である出現した洗礼者聖ヨハネの首が画面中央よりやや右側へ、洗礼者聖ヨハネの首と対峙する、装飾性と神秘性に富んだ呪術師風な衣服を身に着けるサロメが画面中央より左側へ配され、ヘロデ王や従者たちは近景よりやや奥へ空間的距離を置いた位置へ背景的に扱われながら、綿密に計算された構成に基づき描き込まれている。本作において最も考察すべき点は斬首された洗礼者聖ヨハネの首と毅然と立ち向かうサロメの存在的意味にある。輝きを帯びた洗礼者聖ヨハネの首は、その存在と思想的意義が死を超越するものとしての象徴化、首元から生々しく鮮血が滴る出現した洗礼者聖ヨハネの首に臆することなく視線を向ける凛々しく妖艶なサロメの姿は永遠の女性像、官能性、そして何より卑俗的意味や善悪双方の功罪を含む清濁とした聖性の象徴化を見出すことができる。さらに本場面全体としては、混沌とした死と生と性の深い関係性が感じられる。19世紀フランスの小説家ジョリス=カルル・ユイスマンスの代表作『さかしま』内で称賛される本作の主題≪サロメ≫は(当時、熱狂的な愛好家たちからの要望などもあり)画家自身によって複数手がけられており、本作以外にも、フォッグ美術館に所蔵されるひと回り大きい『出現』や、パリのギュスターヴ・モロー美術館が所蔵する『出現』のほか、『ヘロデ王の前で踊るサロメ』、『踊るサロメ(刺青のサロメ、入れ墨のサロメ)』などが広く知られている。

関連:フォッグ美術館 『出現』
関連:ギュスターヴ・モロー美術館 『出現』
関連:アーマンド・ハマー美術館 『ヘロデ王の前で踊るサロメ』
関連:ギュスターヴ・モロー美術館 『踊るサロメ』

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庭園のサロメ

 (Salomé au jardin) 1878年
72×43cm | 水彩・紙 | 個人所蔵

19世紀フランス象徴主義の先駆者ギュスターヴ・モローを代表する作品のひとつ『庭園のサロメ』。1878年頃に制作され、約10年後の1886年に開催された生前のモロー唯一の個展に出品された際には大好評を博した本作は、画家が『出現』などでも主題として取り上げている、ユダヤ王ヘロデ=アンティパスの姪で、その後妻ヘロデヤの娘≪サロメ≫が洗礼者聖ヨハネの首を盆に乗せ運ぶ場面を描いた作品である。画面中央に配されるサロメは、まるで聖母のような穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべながら自らが運ぶ洗礼者聖ヨハネの首へと静かに視線を向けている。サロメの足下には斬首された洗礼者聖ヨハネの身体がおどろおどろしい様子で描き込まれており、サロメの温和な様子と異様な対比を示している。さらに画面左側奥ではこの様子を目の当たりにし、思わず逃げ出す刑の執行人らが配されている。ルネサンス期に活躍したパドヴァ派の巨匠アンドレア・マンテーニャに影響を受けた本作のクマシデ(カバノキ科の落葉広葉樹)の深緑に包まれた庭園の東屋は輝くような光によって美しくサロメらを包み込んでおり、その光景はあたかも神話上の一場面的な印象を観る者に与えるが、本作に描かれる己の欲望に従い残虐な殺人とその結果(洗礼者ヨハネの首)を求め、それにひとときの満足感を抱くサロメの本質は、ファム・ファタル(運命の女・悪女)そのものである。なお本作は個展出品後、モローの支持者や蒐集家たちから熱烈な人気を集め、彼らの強い要望により数点のヴァリアントが制作されている。

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ナイル川に捨てられたモーセ


(Moïse exposé sur le Nil) 1878年
185.5×134.6cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

19世紀フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローを代表する宗教的主題作品『ナイル川に捨てられたモーセ』。同年に開催されたパリ万国博覧会への出品作としても知られる本作は、旧約聖書中≪出エジプト記≫1-2章に記される、エジプトで増加の一途を辿るイスラエル人に脅威を感じたファラオ(エジプトの王)が、ある時、イスラエル人を導く救世主が産まれたとの報告を受け、エジプトに住むイスラエル人の男児の赤子を全て殺害するよう命令を下すものの、イスラエル人ヨケベドが、三ヶ月間隠し育てた我が子モーセの身の危険を察し、産まれて間も無いモーセを葦舟に乗せ、茂みからナイル川に流す場面≪ナイル川に捨てられたモーセ≫を主題とした作品である。画面中央下部には近景として、葦で編まれた籠舟に乗せられナイル川へと流される赤子のモーセ(後のイスラエルの指導者。父なる神から与えられた十戒でも良く知られる)の無垢な寝顔を浮かべる姿が配されており、全身、特に顔部分には後光が輝いている。そして中景にはペリカンなど数羽の鳥が翼を広げながら飛んでゆく姿と共に、穏やかに流れるナイル川の水面が描写されており、さらに後景にはエジプト様式による背の高い古代建築群が陽光に包まれるように描き込まれている。モローは本主題における赤子のモーセに対して、法による統治の希望や繁栄の象徴の意図をモーセの顔や肉体にかかる後光によって示している。また本作においては中景から遠景、画面中央から画面上部へかけて暗から明へと変化する渓谷のような古代エジプトの廃墟的建築物の繊細で幻想的な色彩も秀逸な出来栄えであり、大きな見所である。

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ヤコブと天使

 (Jacob et l'ange) 1878年
253.3×145.4cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

フランス象徴主義の孤高なる巨匠ギュスターヴ・モローの代表的な宗教画作品『ヤコブと天使』。1878年のパリ万国博覧会に出品された本作に描かれる主題は、旧約聖書 創世記第32章 23-31節に記される、イスラエルの民の祖アブラハムの孫ヤコブが兄エサウと和解するため、妻ラケルと羊を連れ兄エサウに会いに行く途中、ペヌエルの地で神(天使)と一晩中格闘をおこなうことになり、激闘の末、最後にヤコブが勝利すると、父なる神から「今後、お前はイスラエル(神の勝者、神の護る人の意)と名乗れ」と祝福を受けた場面≪天使とヤコブの戦い(イスラエルの命名)≫で、通常、本主題≪天使とヤコブの戦い≫ではヤコブと天使の激しい組打ちの姿が描かれるものの、モローは本作において主題を、父なる神の絶対なる力の象徴である≪天使≫に対する人間の無力≪ヤコブ≫と解釈し、描写しているのが大きな特徴である。画面中央に配されるアブラハムの孫ヤコブは天使に腕を掴まれ、必死の形相で抵抗を試みるものの、その圧倒的な力に抗うことができない無力な姿で描き込まれている。画面左側に配されるヤコブの腕を掴む(又は軽く手を添える)天使はヤコブを制御する為に力を込めている様子は全くなく、むしろ凛とした涼しげな表情からは何事も無いかのような印象を受ける。さらに天使を包み込む偉大なる後光は神の絶対的で神秘的な力を象徴しており、観る者はある種の感動すら覚えるのである。同主題を描いた19世紀の作品としてはドラクロワがサン・シュルピス聖堂聖天使礼拝堂壁面に描いた壁画『ヤコブと天使の戦い(部分)』が有名であるものの、モローはドラクロワの『ヤコブと天使の戦い(部分)』をを「ドラクロワは全く理解せずありきたりに表現した」と、天使(神)と人間の対等的な物質的力関係として否定し、「わたしの作品は卓越した道徳的で精神的な力の身体的な力に対する優位性を表現しており、私はこの作品でそれに成功した」と本作について述べている。

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ファエトン(パエトン)

 (Paéton) 1878年
229.5×138cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス象徴主義の大画家ギュスターヴ・モロー成熟期を代表する神話主題作品のひとつ『ファエトン(パエトン)』。1878年に開催されたパリ万国博覧会への出品作としても知られる本作は、古代ローマの伝説的詩人オウィディウスの傑作叙事詩集≪転身物語(変身物語)≫に記された、太陽神アポロン(ヘリオス)の息子≪ファエトン≫の逸話の一場面を主題に制作された神話画作品である。詩集≪転身物語(変身物語)≫では、太陽神の息子であることを証明する為にファエトンが父アポロンに懇願し天の道を駆ける太陽(日輪)の戦車を借り受けるものの、制御しきれず戦車の扱いを誤り天の道を外れしまい、戦車の日輪が大地を焼いてしまいそうになるが、その寸前で最高神ユピテルの放った雷によって河へと打ち落とされており、本作では天道を外れ地上へと落下するファエトンと太陽の戦車が画面中央からやや左上へ配されている。ファエトンの背後には左上から右下へと円を描くように天道が描かれ、その道に沿うように獅子と巨獣(※一説には邪悪を意味する龍・ドラゴンとも解釈される)が配されている。本作を制作するにあたり、モローは青年期に読んだ生前の父が所有していた(死後はモローが相続)≪転身物語≫の仏語訳版の刺激的で幻想的な体験を反芻するかの如く再現したと語っており、画家独自の独創性によって他に類の無い独自的な世界観による主題の表現に成功している。

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ダヴィデ(ダビデ)

 (David) 1878年
229.5×138cm | 油彩・画布 | アーマンド・ハマー美術館

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローを代表する神話的世界観の作品『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』。1878年のパリ万国博覧会への出品作であり、現在はロサンゼルスのアーマンド・ハマー美術館(アーマンド・アンド・ハマー・コレクション)に所蔵される本作は古代イスラエル第2代の王であり、敵対するペリシテ人の屈強な戦士ゴリアテを投石によって倒した逸話でも著名な旧約聖書中に登場する預言者≪ダヴィデ(ダビデ)≫の晩年の姿を描いた作品である。画面中央へ配される玉座に鎮座した古代イスラエル王ダヴィデは、豪奢な王冠を被り、白金の装飾が施された王に相応しい青衣を身に着けているが、長い髭が生える老いた顔の表情は生気を感じさせずやや虚無的であり、この偉大な王の身に人生の終着が迫っていることを容易に連想させる。しかし老ダヴィデ王の足下には王の魂を擬人化した天使が配されており、その姿は若々しく生命力と純真な聖性と不死の象徴性に溢れている。モローはこの姿こそ老いてはいるものの、その魂の生命と聖性に溢れた荘厳なダヴィデ王こそ真に崇高すべき姿であると主題を解釈しており、本作にはその意図が明確に示されている。またダヴィデ王の周囲には純潔の象徴としてよく知られる白鳩が配され、また玉座の上部に描き込まれる炎が灯された香炉からは香煙が天へと立ち昇っており、偉大なる王への敬意と愛情が表されている。

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ガラテイア(ガラテア)

 (Galatée) 1880年
85.5×67cm | 油彩・板 | オルセー美術館(パリ)

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローの晩年期における代表的な神話画作品のひとつ『ガラテイア(ガラテア)』。モローが参加した最後の1880年のサロンへの出品作でもあり、画家が審査員を務めた1889年の万国博覧会へも出品された本作は、古代ローマの偉大なる詩人オウィディウスの最も有名な著書≪変身物語(転身物語)≫に典拠を得て制作された作品で、巨人族キュクロプスの中で特に粗暴で知られる一つ目の巨人≪ポリュペモス≫が、海神ネレウスの娘の中のひとりで、水晶より輝き白鳥の綿毛より柔らかと称された美しい海のニンフ≪ガラテイア(ガラテア)≫を見初める場面が選定されている。画面前景に描かれる海の精霊ガラテアは海中の岩場へ身体を預けるように浅く座り、左手は頭部付近へ、右手や下半身などは脱力的に描き込まれており真横から捉えられた頭部を含めると全身で緩やかなS字曲線を描いている。この艶かしくも女性的な美を強く感じさせる姿態は、『シュルレアリスム宣言』の著者としても20世紀前半期の詩人アンドレ・ブルトンを始めとするシュルレアリスト(超現実主義者)たちや19世紀末の象徴主義者らを強く魅了したことがよく知られている。そして画面奥へは岩場の隙間から美しきガラテアを目撃し、心を奪われる一つ目の巨人ポリュペモスが配されているが、その姿には巨人族特有の怪物的な印象を受けることはなく、むしろ叶わぬ恋に苦しむ男を連想することができる。本作で最も注目すべき点のひとつとして細密に描写された海中植物が挙げられる。波打った黄金の髪を掻き揚げる憂鬱的なガラテアへ絡みつくかのような海中植物は、パリの自然史博物館などでの綿密な研究・調査をおこなった上で丹念な筆触により極めて写実的に描写されており、モローの幻想的な象徴性の着想や表現には現実にあることが示されている。

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人類の生

 (La vie de l'Humanité) 1886年
最上部 37×93cm,各 33×35cm | 油彩・板 | モロー美術館

19世紀フランス象徴主義の偉大なる画家ギュスターヴ・モローの象徴主義性の集大成的な傑作『人類の生』。いつ頃から制作されていたのかは現在も不明であるが、残される素描から少なくとも1870年代末には構想が練られていたことが判明している本作は、聖書中の主題や神話の逸話から9つの場面を選定し≪人類の3つの時期(又は人類の歴史的段階)≫を表した多翼祭壇画形式の大作である。9つに分割される場面は左から右へと朝、昼、晩と時間的経過を表しており、上段には旧約聖書に記された人類の誕生を示す『アダム』の物語が、中段にはギリシア神話に登場する最も高名な吟遊詩人『オルフェウス』の物語が、下段には文明を得た人類の堕落の象徴であり、また人類最初の犯罪(殺人)の物語でもある旧約聖書中『カイン』の逸話が描かれており、そして画面最上部の半円形の画面には人類が至る終着地として≪贖主イエス≫の姿が配されている。またさらに『アダム』、『オルフェウス』、『カイン』は古代ギリシアの詩人ヘシオドスの著書「労働と日々」での各時代『黄金時代』、『白銀の時代』、『鉄の時代』(※青銅時代及び英雄時代は含まれない)に呼応させている。『アダム(黄金時代)』の物語は朝に祈り、昼に陶酔、晩に眠りと人類の純粋な活動が示されており、『オルフェウス(白銀の時代)』における朝=夢、昼=歌、夜=涙のように青春と苦悩の時を経て、『カイン(鉄の時代)』の朝の種まき(生産)、昼の労働、そして晩の死へと続いている。また『アダム(黄金時代)』は少年期、『オルフェウス(白銀の時代)』は青年期、『カイン(鉄の時代)』は壮年期と、そのまま人生の3段階としても解釈することができる。本作では横軸での解釈に留まらず、縦軸、そして斜め軸によっても各場面と時代を解釈することができる点は特筆に値するものである。

関連:『人類の生:各部解釈と対応表』

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旅人オイディプス(死の前の平等)


(Edipe voyageur (l'Égalité devant la mort)) 1888年頃
124×93cm | 油彩・画布 | メッツ美術館

フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー晩年期の代表的な作品のひとつ『旅人オイディプス(死の前の平等)』。本作はギリシア神話に登場するテバイの住人を苦しめていた女性の頭部と獅子の肉体を持つ怪物スフィンクスを退治するためにテバイの岩山へと赴く英雄≪オイディプス≫を描いた作品であるが、画家が名を馳せる要因となった1864年にサロンへ出品された同主題の作品『オイディプスとスフィンクス』と比較すると、解釈、雰囲気、描写手法全てが全く異なることが明確に示されている。モロー自身は本作について「人生の重荷に萎縮しながら傾斜を登り、オイディプスは高台に着く。そこには女の顔をした怪物スフィンクスが自然の祭壇の上で待ち構えている。ここには全てのものに対する謎が存在する。それは勝利か、破滅(死)か、最後の試練なのだ。神秘的で恐ろしい力によって死した者らの死骸が散乱している。これらは弱き魂には死を、強き魂には勝利をもたらす力の犠牲者なのだ。テバイの岩山と暗い海が曇った地平を完全に閉ざし、生死の祭壇の先には深淵が口を開いている。人間はその前を震えながら通るのだ。」と述べている。画面左側に配される英雄オイディプスは己の過酷な人生(※オイディプスは父殺し、母との姦通など罪深き者でもある)を象徴するかのように杖を突きながら項垂れ、その様子は疲弊そのものである。画面中央に配される怪物スフィンクスは祭壇的な供物台に陣取りながら右前足を聖遺物匣に乗せつつ、あたかも審判者のような様子でオイディプスへと視線を向けている。そして画面右側にはスフィンクスの力によって死した(モローが述べるところの)弱き魂の持ち主の死体が散乱しており、恐々とした雰囲気を醸し出させている。なお本作の副題としてしばしば用いられる「死の前の平等」であるが、モロー自身が付けたものではなく、おそらくは同時代の詩人ロベール・ド・モンテスキューの「死の前の平等を表すスフィンクス」に基づいていると考えられている。

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聖ゲオルギウスと竜


(Saint Georges and the Dragon) 1889-1890年
141×97cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

19世紀フランス象徴主義の先駆者ギュスターヴ・モロー晩年期の代表作『聖ゲオルギウスと竜』。1889年から1890年にかけて制作された本作は、小アジア(現トルコ)のカッパドキア出身とされる伝説上の聖騎士であり、英国などの守護聖人としても知られる聖ゲオルギウスの最も著名な逸話≪聖ゲオルギウスと竜≫を主題とする作品である。伝説によればカッパドキア近郊で暴れている巨大な有翼竜への生贄として同国の王の娘が選ばれてしまったものの、旅の途中でカッパドキアへ立ち寄った聖ゲオルギウスがキリスト教への改宗を条件に竜を退治するとの申し出をおこない、それを受諾した王の求めによって聖ゲオルギウス槍を竜の開いた口へと突き立て退治したとされており、本伝説は大凡11世紀から12世紀頃に成立したと考えられている。画面中央よりやや左側へ配される聖ゲオルギウスは輝くような毛並みが目を惹きつける白馬に跨り、黒い甲冑を身に着けながら右手に持つ朱色の長槍を竜へと突き立てている。聖ゲオルギウスが跨る白馬も禍々しい竜を眼前に前足を上げ果敢に威嚇している。画面右下へは聖ゲオルギウスの槍が刺さり口を開け血を滴らせながら鋭い視線を聖人へと向ける有翼竜が描かれており、その姿からは両者の勝敗を容易に窺い知ることができる。さらに画面中央よりやや右側となる中景には、生贄として竜へ捧げられた王の娘が祈りの姿態で配されている。

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ケンタウロスに運ばれる死せる詩人


(Poète mort portee par un centaure) 1890年頃
33.5×24.5cm | 水彩・紙 | ギュスターヴ・モロー美術館

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー晩年期の重要な指針的作品『ケンタウロスに運ばれる死せる詩人』。紆余曲折の画業を経て美術アカデミー会員へ選出された約2年後となる1890年頃に制作された本作は、モローの重要な着想(霊感)の源のひとつであったオルフェウスやサッフォー(サッポー)を始めとする、画家がその人生の中で数多く取り組んできた≪詩人≫そのものを主題とした作品で、本場面は死した詩人の亡骸を、上半身が人間で下半身が馬という姿が特徴的なギリシア神話の登場人物≪ケンタウロス≫が運ぶ場面が描かれている。画面中央やや上部へ配される死した詩人の身体は青白く変色し、まるでケンタウロスへ寄りかかるような脱力感からも生気を全く感じることはできない。画面の中央やや左側に描かれるケンタウロスは詩人の亡骸を右腕で抱きながら荒廃的かつ幻想的な地を闊歩しているが、うつむくその顔からは一見すると挫折や苦悩、無力感、失意、失望などの人間の物質的存在に対する精神性を感じることができる。さらに画面中央やや左下に配された死そのものを象徴する沈みゆく夕日がその精神性を強調している。しかし同時に本作に描かれるケンタウロスにはモローの死というものに対する精神的な共感や過去への憧憬も見出すことができる。さらに本作では晩年期特有の水彩を用いた大胆かつ繊細な筆触による色彩のより奔放的で、より強まった幻想性は観る者を強く惹きつける効果を生み出している。

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栄光のヘレネ

 (Hélène glorifiée) 1887-97年頃
19×12cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀後半に活躍したフランス象徴主義の大画家ギュスターヴ・モロー晩年期作品『栄光のヘレネ』。本作は前世紀(18世紀)における最も著名な詩人・小説家のひとりヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの最重要長編戯曲≪ファウスト≫第2部第1幕より登場する、ギリシア神話において人間界最高の美女であり、またトロイア戦争の切欠ともなったスパルタ王テュンダレオスと王妃レダの娘≪ヘレネ≫を主題とし、モローの独自解釈に基づいて制作された象徴性の著しい作品である。画面中央に描かれる絶世の美女と名高きヘレネは、もはやその顔貌は消失し、僅かな陰影によってようやく目鼻口の造形を確認できるほどの描写に留められている。またそれは腰に巻かれた極薄のヴェールと中世風の文様が施される装飾性豊かな長肩掛によって姿態の曲線が強調される裸体にも認めることができ、純化(単純化)されたヘレネの表現にはモローの絵画制作における女性図像の象徴的昇華を見出すことができる。さらにヘレネの上部には明々と(加えてやや毒々しく)光り輝くひとつ星(又は生の終焉を象徴する宵の明星)と円光が配され、ヘレネの右手には純潔の象徴たる白百合が一輪持たされている。そしてヘレネの周囲には古代叙事詩の英雄的登場人物が吹く数人配されており、全体でひとつの生命体を思わせるような世界(又は宇宙)を構築している。本作の画面構成や象徴性は同時期に制作された『神秘の花』にも示されており、モローの画家としての絵画的終着点を感じずにはいられない。

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パルカと死の天使


(La Parque et l'ange de la mort) 1890年頃
110×67cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー晩年の象徴的な作品『パルカと死の天使』。画家最愛の恋人であったアデライド=アレクサンドリーヌ・デュルーが死去した直後から構想され、同年(1890年)頃現在の形で完成した本作は、人間の運命を司る女神≪パルカ(※通常はクロト(紡ぐ者)、ラケシス(運命の割当者)、アトロポス(不可避の者・糸を断つ者)の3姉妹とされる)≫たちに導かれる≪死の天使≫を象徴的に描いた作品である。画面中央に描かれる黒馬に跨りながら歩みを進める死の天使は、人間に死をもたらすのであろうことを容易に連想させる大剣を象徴的に片手で持ち、光輪を背負いながら丘の上に参じている。死の天使の赤い翼は後光によって赤々と輝き、まるで人間の逃れられない、拒むことのできない死を象徴しているかのようである。死の天使の前面に描かれるパルカは唯、静かに死の天使を導き、無感情にその職務を遂行している様子である。そして画面後方となる遠景には、あたかも人の命が儚く消えゆくように夕日が沈んでいる情景が描かれており、さらに死の天使の上部には星(一説には明星とされる)が輝いている。本作が描かれた1890年にモローは恋人アデライド=アレクサンドリーヌ・デュルーを亡くしており、最愛の恋人に訪れた絶対的な死の運命とその絶望的な感情を本作からは感じることができる。

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神秘の花

 (Fleur mystique) 1890年頃
253×137cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀フランス絵画界における孤高なる象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー晩年期を代表する宗教的作品『神秘の花』。画家が若き日に滞在したイタリアでの過去の偉大なる巨匠たちの模写に基づいた本作は、玉座に在る≪聖母マリア≫を主題とした作品である。本作の画面上部中央には、聖母マリアの象徴であり純潔を意味する白百合(※四大天使のひとり大天使ガブリエルが処女マリアの許に現れ、その身に神の子イエスを宿すことを告げる≪受胎告知(処女懐胎)≫の際、アトリビュートとしてマリアへ差し出す花としても知られる)の玉座に座りながら十字架を掲げる聖母マリアが凛とした堂々たる姿で配されており、その頭上(聖母マリアの左上付近)には父なる神と一体として考えられる聖霊(白鳩)が描き込まれている。また聖母マリアが座する玉座の白百合の茎を地面へと辿るとキリスト教の教理に殉じた幾多の聖人(殉教者)たちが細々と描かれており、この花咲く玉座の白百合が殉教者たちを生命の糧としていることを表している。この図像(イコノグラフ)の解釈としては、死してなお巨大な白百合として神(白鳩の姿で描かれる聖霊や神の子イエスを宿す器たる聖母マリア=神の母)と共に在るという≪キリスト教(カトリック)の勝利≫とする説が最も一般的であり、本項でもそれに準じることとする。

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夕べの声

 (Voix du soir) 1890年頃
34.5×32cm | 水彩・紙 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀末フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー晩年期を代表する作品のひとつ『夕べの声』。1890年からモローが死する前年となる1897年頃のいずれかの時期に制作されたと考えられ、画家最晩年期の作品のひとつに位置付けられる本作は、奏楽の3天使の頭上に輝く宵の明星(金星)にて≪夕刻≫そのものを主題に描かれた作品である。画面中央に描かれる有翼の3天使は鮮やかな赤い豪奢な衣服を身に着けた中央の天使を中心にほぼ対称的(シンメトリー)に描かれており、その浮遊的でありながらも安定的で厳格性豊かな構成にはモロー作品に共通する独特の神聖な精神的神秘性を強く感じさせる。また3天使個々の頭上に輝く白色の星と、それよりさらに強い明々とした輝きを放つ宵の明星には1890年にこの世を去った最愛の恋人アデライド=アレクサンドリーヌ・デュルーの死や、やがて己にも訪れる(決して逃れられない)死の象徴性を見出すことができる。このような本作に込められる画家の精神的内面も特に注目すべき点であるが、何より本作で特筆すべき点は多様で華麗な水彩による色彩の秀逸な出来栄えにある。中央の天使には赤色の、左右の天使にはその補色的関係にある緑色の衣服を身に着けさせ色彩的対比を示しつつ、3天使の背に生える青々とした翼が見事なアクセントとなって画面を引き締めている。さらに背景に用いられる中間色や黒色に近い色彩は奏楽の3天使、そして主題である宵の明星と明度的コントラストを示しており、観る者に鮮烈な印象を与えることに成功している。

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エウリュディケの墓の上のオルフェウス


(Orphée sur la tombe d'Enrydice) 1891年頃
173×128cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

フランス象徴主義の偉大なる画家ギュスターヴ・モロー晩年の作品『エウリュディケの墓の上のオルフェウス』。画家と長年に亘って恋人関係にあり、本作制作の前年(1890年)に死去したアデライド=アレクサンドリーヌ・デュルーへの追悼的作品として制作されたと考えられる本作は、ギリシア神話に登場する吟遊詩人オルフェウスが、毒蛇に咬まれ死した妻エウリュディケを冥界から救い出すために冥府下りし、同地の王ハデスの前で竪琴を奏で、「冥界を抜けるまで後ろを振り返らぬこと」を条件にエウリュディケの返還願いを聞き入れられるものの、地上に辿り着く寸前にオルフェウスが振り返ってしまった為に、最愛の妻エウリュディケを永遠に失ってしまうという物語を主題に描かれている。本作について画家自身は次のような解説を残している。「枝は枯れ落ち、干乾びた樹の根で詩人は孤影悄然とし、竪琴は死に打ちのめされたかのような枝に掛けられ見捨てられる。この魂は孤独であり、光や喜び、生きる力は全て失われてしまった。あらゆるものから見捨てられ、慰めようもない孤独の中で詩人は自らを嘆き、悲しむ。そして魂は呻く。その嘆きこそ、孤独の中の唯一の音なき音なのだ。傍らで灯る憐憫(同情)の象徴たるランプの炎は墓標の奥で柔らかく思い出を照らし出している。詩人の周囲は静寂が支配し、そして壁に囲まれた小堂と聖池の上には月が昇っている。池には青藻から落ちる滴のみが規則的に、慎ましやかに音をたてる。それは憂鬱と慰めに満ちた音、死が支配する静寂の中における生命の音」。

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オレステスとエリニュスたち
(オレステスと復讐の女神たち)


(Oreste et Erinyes (ou et les Furries)) 1891年
180×120cm | 油彩・画布 | 個人所蔵

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローの代表作『オレステスとエリニュスたち(オレステスと復讐の女神たち)』。本作は古代ギリシアの伝説的吟遊詩人ホメロスによる傑作叙事詩≪イリアス≫に登場するミュケナイ王アガメムノンの息子≪オレステス≫の逸話を主題とした作品である。叙事詩≪イリアス≫に記されるオレステスの逸話では、ミュケナイ王アガメムノンを殺害したオレステスの母クリュタイムネストラとその愛人(情夫)アイギストスが、王の息子(そしてクリュタイムネストラ自身の息子でもある)オレステスも殺そうとするものの姉エレクトラの手引きで難を逃れ、数年後、従兄弟ピュラデスを伴い父の仇である母クリュタイムネストラとアイギストス討つものの、親殺し(実母殺し)の罪によりエリニュス(復讐の女神たち)に追われることになり、遂には呪いを受け狂気に陥ったが太陽神アポロンの力により正気に戻ったとされており、本作ではエリニュス(復讐の女神たち)に追われる狂気のオレステスが太陽神アポロンの神殿で正気に返る場面が描かれている。画面下部へ配されるオレステスは太陽神アポロンの神殿の聖々とした静寂と大理石の低い温度によって冷静さを取り戻し、犯した親殺しの罪に自責し、また恐怖している。オレステスの頭上ではアレクト(不休者)、ティシポネ(復讐者)、メガイラ(嫉妬者)と3人の復讐の女神たちが留まり、悲痛な表情を浮かべながら涙を流している。本作の劇的な感情性や運動性を感じさせず、観る者の内面へと迫るかのような登場人物の静的な情感表現や詩情性、またそれを効果的に引き立てる装飾性の際立つ神殿の場面描写などは画家の作品の中でも傑出した出来栄えを示している。

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ユピテルとセメレ

 (Jupiter et Sémélé) 1895年
213×118cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀フランス象徴主義の大画家ギュスターヴ・モローが最晩年に制作した随一の大作『ユピテルとセメレ』。モローが死の3年前となる1895年に、わずか4ヶ月で仕上げたとの逸話も残される本作は、神話≪ユピテルとセメレ≫を主題に独自的解釈に基づいて構成された大作中の大作である。本作の主題≪ユピテルとセメレ≫は、主神ユピテルと結ばれ、その子を身篭ったテバイ王の娘セメレに嫉妬する(ユピテルの正妻である)女神ユノに、「お前の愛する男が本当に神であるか確かめてみよ」と唆されたセメレが、ユピテルに一度だけ本当の姿を見せて欲しいと懇願し、ユピテルが仕方なく神の姿に戻った途端、セメレの身体が神の威光(稲妻とされる)に焼き尽くされたとされる内容であるが、本作にはユピテルやセメレの他にも、サテュロス、ファウヌス、ドリュアス、ハマドリュアス、天使、妖精、聖鳥(鷲)など神話・宗教を問わず様々な要素が独自的解釈に基づきながら取り入れられている。また本作には神話上の主題≪ユピテルとセメレ≫の他にも、側面的に神と人間との結婚≪聖婚≫の象徴化への取り組みとも解釈する研究者も多い(モローは1875年頃から聖婚の取り組みひとつとして『レダ』を画題とした作品を複数手がけていることも知られている)。画面中央からやや上に配される主神ユピテルは、赤々とした稲妻を背後に伴いながら玉座に君臨しており、その姿は神としての威厳に満ち溢れている。その傍ら(ユピテルの右手側)に配されるセメレは白く輝く肌が高貴な身体を甘美に反らせながら、ユピテルへと視線を向けている。神話画としても(ある種の)宗教的図像としても伝統的展開から大きく逸脱し、異国的な雰囲気さえ感じさせる本作の、非常に緻密で繊細な描写による複雑な構成や、無秩序的ながら華麗さと調和を感じさせる個性的な色彩表現、幻想性や神秘性を強調する流麗で儚げな線描などには、晩年期とは思えないほど画家の野心を見出すことができる。なお本作の構図は当初、新古典主義の巨匠アングルの『ユピテルとテテュス』に着想を得られていた。

関連:1875年頃制作 『レダ』
関連:1890-95年頃制作 『ユピテルとセメレ』

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テスピオスの娘たち(テスピウスの娘たち)


 (Les fille de Thespius) 1853-83年頃
258×255cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

19世紀フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローを代表する神話的主題作品のひとつ『テスピオスの娘たち(テスピウスの娘たち)』。モローが師シャセリオーの作品に強く感銘し、1853年から制作が開始され、一時期の中断を経て1882年から再着手し翌1883年頃に完成となった本作は、古代ギリシア神話に登場する伝説的英雄≪ヘラクレス≫の逸話のひとつで、キタイロン山のライオン狩りに向かったヘラクレスを歓迎するテスピオス(テスピウス)王が、彼の50人の娘と一晩の内に交わらせ、それぞれに子をもうけたとされる話を主題とした作品である(※またヘラクレスがミケーネ王エウリュステウスから命じられた12年間の奉仕(12の功業)のひとつからも典拠を得ている)。本作ではヘラクレスが画面のほぼ中央に配されているが、その様子は周囲に集う裸体のテスピオスの娘たちと彼女らが身につける香水によって、まるで苦悩しているかのような姿に見える。ヘラクレスの周囲には大勢のテスピオスの娘らが描き込まれているが、妖艶で幻想的ながら生気を全く感じさせない娘らの姿には、ある種の無機質性を見出すことができる。またヘラクレスの座する台横の標柱には男性的な力の象徴である太陽と雄牛、女性の神秘性の象徴である月とスフィンクスが装飾されており、さらに本場面全体の建築からは文明的でありながら原始的な力動の雰囲気を強く感じられる。本作に表される50人もの美しき、そして無感情なテスピオスの娘たちと孤独的なヘラクレスの対比には主題に対するモロー独特の解釈が示されており、さらに群集構図でありながら静寂すら感じさせる全体像には画家独自の美の世界観を見出すことができる。

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求婚者たち

 (Les prétendants) 1852-1896年
385×343cm | 油彩・画布 | ギュスターヴ・モロー美術館

フランス象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローの代表作『求婚者たち』。1852年から制作が開始されたものの、一時中断された後、1882年頃から再び制作が再開され1896年に完成されたという非常に長期間を経て手がけられた本作は、古代ギリシアの偉大なる詩人ホメロスの傑作叙事詩≪オデュッセイア≫第22歌として記される英雄オデュッセウスの帰還の場面を主題に制作された作品である。本作は叙事詩≪オデュッセイア≫でトロイア戦争後、20年あまりの放蕩的冒険の末に母国へ帰還した英雄オデュッセウスであるが、オデュッセウスの留守中に彼の妻ペネロペへ求婚した幾多の者らが宮殿広間で傍若無人に酒宴を開催する姿を目の当たりに、弓で求婚者らを射殺したという逸話に基づいて制作されるが、英雄オデュッセウスは画面奥の扉の前で弓射る姿として小さく描かれるのみであり、最も観る者の眼を惹きつけるのは画面の中央やや右側に配される女神アテネ(ローマ神話における女神ミネルヴァと同一視される)の存在である。作品中で一際輝きを帯び、英雄オデュッセウスへ啓示を与えるかのような女神アテネの姿は神々しさと幻想性に溢れ、またその圧巻的な生の象徴性は画面前景から中景にかけて配されるオデュッセウスに射られ死した幾多の求婚者らの姿と見事な対比を示している。また本作の複雑な群集構図や表現様式に注目しても、長い月日を経て制作されているが故に画家自身の描写的特徴の変化が本作に多様性を生み出す結果となって表れており、観る者を強く惹きつける。

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Work figure (作品図)


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