Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ウジェーヌ・ドラクロワ
Fedinand Victor Eugene Delacroix
1798-1863 | フランス | ロマン主義





フランス・ロマン主義最大の巨匠。色彩の魔術師と呼ばれたほど色彩表現に優れ、輝くような光と色彩の調和による対象表現や、荒々しく劇的でありながら内面的心象を感じさせる独自の場面展開で、文学的主題、歴史画、宗教画、肖像画、動物・狩猟画、風景画、静物画などあらゆるジャンルの作品を制作。自身は孤高の存在であったが、当時の西欧全体に広がりつつあったロマン主義や新様式の先駆として注目された。特に画家が見出した影の中に潜む色彩はルノワールなど印象派を始めとした後世の画家たちに多大な影響を与えた。1798年、裕福な政治家の家に生まれ、1817年から新古典主義の画家であったピエール=ナルシス・ゲランのアトリエで絵画を学ぶほか、同アトリエでロマン主義を代表する画家のひとりテオドール・ジェリコーと知り合う。1822年、『ダンテの小船(地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)』でサロン初入選後、『キオス島の虐殺(1824年)』、『サルダナパロスの死(サルダナパールの死)(1827年)』など数々の問題作をサロンで発表し、入選、落選を繰り返すが、これらの作品は画家が他のロマン主義者たちから注目を浴びる大きな要因となった。1825年、英国へ旅行。1832年、友人であったモルネー伯爵の誘いで政府使節団の一員としてモロッコ・ナイジェリアなど北アフリカへの旅行に参加し、同地の強烈な陽光によって表れた光と色彩の重要性を発見する。また同地で手がけた無数のクロッキーや水彩画はフランス美術史の中でも重要視されている。帰国後、『アルジェの女たち(1834年サロン出品)』など北アフリカに典拠を得た作品を次々と制作、同作は国家買い上げとなる。以後、大規模な装飾壁画の仕事や、1855年に開催された万国博覧会で大きな成功を収め、1857年、美術アカデミーの会員に選出。晩年は重病におかされるなど健康を著しく悪化させ、1863年パリで死去。なお新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルによる≪線≫と、ドラクロワによる≪色彩≫は当時大きな対立論争となったほか、画家自身はルネサンスヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノや、バロック絵画の大画家ルーベンスジェリコーなどから大きな影響を受け、独自の作風を形成した。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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ダンテの小船
(地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)


(La barque de Dante (Dante et Virgile aux enfers))
1822年 | 189×264cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館

ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ最初期の傑作『ダンテの小船(地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)』。ドラクロワが24歳の時に手がけたサロン初出品作品としても知られる本作は、当時画家が愛読していた13〜14世紀に活躍したイタリア文学史上最大の詩人ダンテ・アリギエーリの代表作≪神曲≫中、Inferno(地獄篇)第8歌の場面を描いた作品である。サロン出品時には新古典主義の批評家ドレクリュースらから激しく批難されるものの、当時のフランスを代表する画家アントワーヌ=ジャン・グロからは高く評価され、後に国家買い上げともなった本作では、画面中央へ赤い頭巾を身に着けた主人公のダンテと案内人である詩人ウェルギリウスが小船に乗り地獄の川を下ってゆく姿が配されているが、特に小船にしがみ付き這い上がろうとする亡者(死者)らと対峙するダンテの片手を上げながら恐怖を示す姿の激しい感情性は、観る者に本場面の強烈な印象を植え付けさせることに成功している。また地獄の川で浮き沈みを繰り返しながら小船へと這い上がってくる亡者(死者)たちの生々しい姿態や恐々とさせる表情には、新古典主義的表現とは対照的な劇的情念を強く感じさせる。さらに本作が賛否両論を巻き起こす大きな要因ともなった登場人物らと、赤々と燃えるディテの街が印象的な背景との強く明確な色彩的対比とそれによる効果的表現や、各要素によって全体を三角形に展開させた躍動的で力動的な画面構成も本作の大きな注目点である。

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キオス島の虐殺


(Scènes des massacres de Scio) 1823-24年
417×354cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

18世紀フランスにおいて隆盛したロマン主義随一の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ初期の問題作『キオス島の虐殺(死あるいは隷属を待ち受けるギリシア人の家族)』。本作は1820年にオスマン帝国(オスマン・トルコ)の圧政支配に抗う形で会戦した≪ギリシア独立戦争≫時の実話で、1822年4月に起こったオスマン・トルコ軍によるキオス島住人に対する虐殺的行為を描いた非常に社会性の強い作品である。画面前景にはオスマン軍の残虐行為により生きる活力や希望を失うキオス島の住人が混沌とした雰囲気で描き込まれおり、力無く倒れる若い男女や虚空を見つめる老婆、死した母親に縋りつく幼児、そして裸体のまま馬に乗ったオスマンの兵士に連れ去られる若い娘など、その光景は陰惨そのものである。このあまりの写実性や主題の扱いに当時、ドラクロワを高く評価していたアントワーヌ=ジャン・グロですら「これは絵画の虐殺だ」と叫んだほど賛否両論を巻き起こした。この≪ギリシア独立戦争≫にはロマン主義を代表する英国出身の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンも義勇兵として参戦しており、このバイロンの行為も本作の制作において大きな触発材料となった。また表現手法に注目しても鮮烈で輝くような遠景、特に空の色彩は同時期、ドラクロワが強い興味を示していたジョン・コンスタブルの代表作『干し草車(風景−昼)』からの明確な影響を見出すことができるほか、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサン作『アシドドのペスト(ペストに襲われるペリシテ人)』などからの影響も指摘されている。なお本作は1824年のサロンへ出品され入選すると共に、国家買い上げとなった。

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ミソロンギの廃墟に立つギリシア


(La Grèce sur les ruines de Missolonghi) 1826年
209×147cm | 油彩・画布 | ボルドー美術館

フランス・ロマン主義最大の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ初期の重要な作品『ミソロンギの廃墟に立つギリシア』。本作は『キオス島の虐殺』と同様、オスマン帝国(現トルコ)に支配されていたギリシアの人々が1821年に蜂起し反乱を起こしたことに始まる≪ギリシア独立戦争≫に着想を得て制作された作品で、場面として戦争時、要塞として重要な拠点のひとつに位置付けられ、ギリシアの抵抗に強く共感を示していたロマン主義を代表する英国出身の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンが戦死した場所でもあるミソロンギが選定されている。画面中央に描かれる悲愴な表情を浮かべる若い女性はギリシアを象徴化した擬人像であり、オスマン帝国軍の攻撃に陥落し廃墟と化したミソロンギの町に転がる血のついた瓦礫の上で、両手を広げ絶望(又は絶望に対する救済の哀願)の仕草を示している(彼女のモデルは画家が手がける女性像の重要な着想元となった≪ロール嬢≫であると伝えられている)。ギリシアの擬人像が片膝(左膝)の瓦礫の下には戦争で死したギリシア人の右腕が配されているが、これは独立戦争によって当時、欧州で回顧が強まっていた古代ギリシア文化の物理的崩壊を示していると同時に、同地で死した詩人バイロンをも暗示させている。そして遠景となる画面右側奥ではオスマン帝国軍に従軍者が三日月の帝国旗を掲げている。本作で最も注目すべき点は、ロマン主義的表現要素が明確に示されるギリシアの擬人像の描写にある。画面中で最も強い光彩を用い身体全体で絶望を表すギリシアの擬人像の感情性や、時事的社会性への取り組みはロマン主義の大きな特徴であり、ドラクロワ最大の傑作『民衆を率いる自由の女神−1830年7月28日』へと続く擬人像による社会的時事表現の重要な里程標となった。

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エビのある静物(大海老と狩りと釣りの獲物のある静物)


(Nature morte au hommard) 1826-27年
81×107cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する静物画作品『エビのある静物(大海老と狩りと釣りの獲物のある静物)』。ドラクロワが1825年の5月末から8月頃までの約2ヶ月強の間滞在した英国から帰国直後に制作され、1826-27年のサロンへ出品された本作は、牧歌的で雄大な風景の中へ赤々とした大海老(伊勢海老)、野鳥、野兎、猟銃、籠網などを配した≪静物画≫作品である。前景となる画面下部へは16〜17世紀のフランドル絵画ネーデルランド絵画の影響を感じさせる非常に写実性の高い細密な描写で大海老や野鳥、野兎など狩猟での獲物が描かれており、その奥には猟銃など狩猟道具が配されている。さらに画面最下部へは一匹の蜥蜴が野鳥の方へ向かうような姿で加えられており、静物画としての本作に生命感を与える効果を生み出している。そして画面中景から遠景にかけては英国絵画史上、最も重要な風景画家のひとりで同時代の英国を代表する画家ジョン・コンスタブルの様式を連想させる清々しく物語性を感じさせる風景が広がっており、画面前景の静物と不思議な違和を生み出している。このやや唐突感すら見出すことができる(当時としては)特異的な構図や画面設計、各要素の構成こそドラクロワの野心的展開が示された本作の最も注目すべき点であり、画面全体から醸し出される雰囲気や様子には20世紀の前衛的芸術展開にも通じる、超現実主義(シュルレアリスム)的な印象すら受け取ることができる。また大海老に用いられる赤紅色と青々とした空の色彩的対比、若き画家の力動を感じさせる筆触など本作は色彩や表現手法に注目しても見所は多い。

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白い靴下の裸婦(白靴下の女)


(Femme aux bas blancs) 1825-26年頃
26×33cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス・ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワの最も官能性豊かな作品のひとつ『白い靴下の裸婦(白靴下の女)』。1832年のサロン出品作としても知られる本作は、白い靴下を履いたベッドに横たわる官能的な裸婦を描いた作品で、寸法約26×33cmと小品作品ながら画家の裸婦画の傑作として広く認知されている。制作年代については異論も少なくないが、一般的には1825年から翌1826年頃と位置付けられている本作では、画面左上から対角線上となる右下へと頭部から足先が流れるような配置で裸婦が配されており、画面中央部には裸婦の女性面を最も感じさせる下腹部が、女性の丸みを帯びた身体の特徴を強調するかのように描き込まれている。両腕で頭を抱えるような仕草をみせる裸婦の官能的な姿はしばしば18世紀スペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの『裸のマハ』と比較されるが、対角線上に配される裸婦の姿態は画面の中へ躍動感を与える効果を発揮しており、観る者を誘うかのような裸婦の肉感と刺激性を強調させている。そしてこの対角線的配置は同時期に手がけられた『サルダナパロスの死(サルダナパールの死)』にも用いられている。これら裸婦自体の表現も特筆に値する出来栄えであるが、本作で観る者の眼を最も惹きつけるのはベッドの周囲に配された真紅のカーテンの色彩にある。画面自体を包み込むかのように描かれる赤いカーテンは、艶かしい裸婦や彼女が履く靴下、ベッドに用いられる白色、そしてピロー(枕)部分や陰影部分に用いられる黒色に近い色彩と見事な対比を示している。さらに細部を注視しても、裸婦の左腕部分やピロー部分などで下地として対色となる寒色を置くことで色彩の彩度を視覚的に強調させている。この色彩の中に新たな色彩を見出す感覚や観察力は色彩の魔術師と謳われたドラクロワ作品の真骨頂でもあり、後世の画家たちに多大な影響を与えた。

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女とオウム(オダリスク、おうむと女)


(Femme aux perroquet) 1827年
24.5×32.5cm | 油彩・画布 | リヨン美術館

フランス・ロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワが手がけた裸婦作品の傑作『女とオウム(オダリスク、おうむと女)』。1827年に制作されたドラクロワの裸婦作品の中で最も有名なもののひとつとして数えられる本作は、ドラクロワの女性像の重要な着想元となった≪ロール嬢≫を裸婦のモデルに制作された作品で、彼女はほぼ同時期に画家が手がけた『ミソロンギの廃墟に立つギリシア』でもモデルを務めている。画面中央に配されるやや緑色を帯びた青色の長椅子にゆったりと横たわる裸婦は左手を床に着くほどだらりと脱力させ、やや節目がちに視線を傾けながら、一羽の鸚鵡(おうむ)へと手を伸ばしている。裸婦の脚は左足を上にして組まれているが、下となる右足は質の良さを感じさせる光沢を放つ座布団(クッション)の上に置かれている。裸婦の身に着ける腕輪、頭部の面紗(ベール)、首飾り、そして柔らかく座る長椅子や鸚鵡などは当時の東方趣味の影響と吸収を感じさせるものの、本作において、より注目すべき点はその色彩の豊かさにある。縦24.5cm、横32.5cmとドラクロワの作品の中では非常に小作な部類に属する本作ではあるが、そこに用いられる色彩、画面左側の赤色と黄色のカーテン、青色の長椅子とそこへ掛けられる大きい葡萄色(又はワインレッド)の織物と減法混色の三原色を大胆に起用しながら画面全体としては非常に気品高い雰囲気を観る者に与えることに成功している。さらに裸婦のしなやかで丸みを帯びた身体へ落ちる微妙な陰影の変化がドラクロワが使用する色彩を効果的に引き立て、繊細な印象を与えつつ、流動的でやや大ぶりな筆触によって女性の姿には華やかな生命力を見出すことができる。なお本作を手がける前々年頃に、本作と双璧を為す裸婦の小作『白い靴下の裸婦(白靴下の女)』を手がけている。

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サルダナパロスの死(サルダナパールの死)


(La mort de Sardanapale) 1827-28年
395×495cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワが手がけた作品の中で最も同主義の特徴が示される、画家屈指の代表作『サルダナパロスの死(サルダナパールの死)』。1827年から翌28年に開催されたサロンに出品され、尋常ならぬほどの批判を浴びることとなった本作は、19世紀初頭に活躍した英国を代表する詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの詩集(戯曲)≪サルダナパロス≫に主要な着想を得ながら、同詩集の内容を大きく改変させた光景として描かれた作品である(※サルダナパロスは古代ギリシアにおける古代アッシリア帝国サルゴン朝の最後の王アッシュール・バニパルの異名である)。バイロンの詩集で扱われるサルダナパロスは、支配下の民衆のための益を望んだ王であり、反乱軍の謀略によって失墜する王の最後は、毅然と態度を崩さず自ら火葬の階段を登ってゆく高貴な姿で書き出されているものの、本作に描かれるサルダナパロスは全く逆の様子である。画面上部中央より左側へ配されるサルダナパロスは、鮮やかな赤色の敷布で覆われ黄金の象で装飾された寝具で片肘を突き寝そべりながら周囲の光景を無表情・無感情で眺めている。その周囲では己の死の後に存在することを許さなかった王の命令によって、臣下や近衛兵、奴隷らが、サルダナパロスの財宝を破壊し、寵姫や寵馬など王の快楽のための全ての者や動物を殺害する極めて暴力的な様子が近景として克明に描かれている。さらに画面上部やや右部分へはサルダナパロスが火葬される処刑台が描き込まれている。本作が批評家たちから激しく攻撃される要素となったのは、遠近法を無視した空間表現や奔放で激情的な運動性、過度に鮮烈さを感じさせる色彩など描写的特長のほか、異国情緒に溢れた東方趣味(オリエント)的主題選定、破壊的で改革的な思想、狂乱的な官能性を始めとした感情的意識など、当時≪理想美≫とされていた古代ギリシア・ローマに基づく新古典主義の保守的で典型的な様式と対極に位置する表現を用いたためである。しかしこれらの要素こそロマン主義の本質であり、当時のフランス美術界における≪反義≫そのものであり、故に今なおロマン主義絵画の最高峰として位置付けられているのである。なお本作がサロンで公開された際、当時の美術大臣が画家に対して「公的な仕事を請けたければ、別の表現で描かなければならない」と警告を与えたとの逸話も残されている。

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ポワティエの戦い

 (La Bataille de Poitiers) 1830年
114×146cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス・ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する歴史的戦争画作品のひとつ『ポワティエの戦い』。ベリー公爵夫人の依頼によって1830年に制作された本作は、フランスの王位継承をめぐって同国とイングランド王国(英国)の間におこった戦争、通称≪百年戦争≫の中のひとつの戦いで、1356年9月19日プランタジネット朝イングランド王エドワード黒太子がフランス・ヴァロワ朝の第2代国王ジャン2世(ジャン善良王)を破り同善良王を捕虜にしたことでイングランド軍勝利の決定的な位置付けともなった≪ポワティエの戦い≫の場面を主題に描かれた作品である。画面中央やや左側の最も明瞭な光の中に描き込まれるジャン善良王は国王らしく黄金の衣服(甲冑)に身を包みながら敗色濃厚な戦いを鼓舞するかのようにフランス軍を指揮している。ジャン善良王の傍らにはエドワード黒太子率いるイングランド軍と果敢に戦う当時14歳のフィリップ2世(フィリップ豪胆公)の姿が描かれている。そして画面右側や画面最前景にはフランス軍へ攻め入るイングランド軍の兵士らが躍動感に溢れる姿で配されている。画面左から対角線となる右下がり的に流れる登場人物の配置や高い運動性、やや強い明暗対比による劇的な場面展開、物語性を感じさせる背景や空の色彩表現、そしてジャン善良王が本作の主役とひと目で理解できるよう、大人数が描かれる本作の中で唯一人、地平線より上に頭部が描かれるなど本作にはドラクロワの様々な表現的施策が明確に示されている。

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民衆を率いる自由の女神−1830年7月28日


(La Liberté guidant le peuple - Le 28 juillet 1830)
1830年 | 259×325cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館

フランスロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワの代表作。当時国民の支持を失っていた国王シャルル10世が、言論の自由を奪う勅令を出したことが引き金となり1830年に起こった、所謂7月革命が題材の、画家自身が体験し描いた歴史画。その歴史的背景と価値を考慮し、フランス国家が買上げることになった。「自由」「平等」「博愛」の意味を持つ、後にフランス国旗となる青・白・赤色(トリコロールカラー)の旗を掲げる女神は、争いの暗い影に光をもたらす存在として描かれるほか、民衆の、死してなお自由を求める力強さは圧巻の一言である。これら表現は、何れも主情主義的な方法を用いられており、また民衆の同胞の死体を乗り越え前進するという、この革命でおこなられた自由を求める争いの凄惨さを、ドラクロワが克明に描いたことは特に注目すべき点である。7月革命後、王政復古で復活したルイ18世のブルボン朝は失脚し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に付くことになったほか、この革命は、ベルギー、イタリア、ポーランドなどの国々へ民族運動を発起させる切っ掛けを与えた。なおドラクロワが近代絵画の創始者の一人であるスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤによる著名な戦争画『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』に強い衝撃を受けたことは、本作を制作する重要な要因となった。

関連:ゴヤ作 『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』

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ミラボーとドルー=ブレゼ


(Mirabeau et Dreux-Brézé) 1831年
77×101cm | 油彩・画布 | ニイ・カールスベルク彫刻館

フランスロマン主義の最も重要の画家ウジェーヌ・ドラクロワを代表する史実的歴史画作品のひとつ『ミラボーとドルー=ブレゼ』。対画となる『国民公会のボワシー・ダングラス』と共に7月王政後のルイ・フィリップ政府(オルレアン朝政府)主催の絵画コンクールへ出品されるものの入選には至らなかった本作は、フランス革命直前の1789年6月23日に、三部会に集った第三身分者(=民衆)たちに対する解散と退去という国王の勅命をドルー=ブレゼ公爵が当事者(第三身分者)らへ伝達するものの、「我々は民衆の意思によって此処に在る。銃剣を用いぬ限り我々を追い出すことは叶わぬ」と勅命に反抗した、貴族階級でありながら第三身分として三部会へ選出されたフランス革命初期の指導者オノーレ・ミラボー伯爵の有名な一場面を描いた作品である。画面中央より右側に描かれるのは王党派であり第二身分者(=貴族階級者)であるドルー=ブレゼ公爵が玉座を背景に国王の勅命を第三身分者らへ伝達する姿が描かれ、それと対峙するかのように画面左側へは大勢の第三身分者らと共にミラボー伯爵が憮然的かつ断固たる態度で明確な反抗の意思を示している。このフランス革命においてあまりにも名高い逸話≪球戯場の誓い(テニスコートの誓い)≫直後の民衆の強固な意思と信念の明確な表れである本場面の第三身分者と第二身分者の相容れない張り詰めた緊張感や、第三身分者らの静かに燃え上がる革命(国民議会)への熱い想いが本作からはよく伝わってくる。

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ヴァイオリンを奏でるパガニーニ


(Paganini jouant le violon) 1831年
45×30.4cm | 油彩・画布 | フィリップス・コレクション

フランスロマン主義最大の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する肖像画作品『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』。ワシントンのフィリップス・コレクションに所蔵される本作は、同時代を代表するイタリア出身のロマン派のヴァイオリニスト兼作曲者で、そのあまりにも卓越したヴァイオリンの演奏技術から「悪魔に魂を売り渡して手に入れた」と実しやかに噂された≪ニコロ・パガニーニ≫が、1831年3月9日にパリのオペラ座でおこなった独奏会時の姿を描いた作品であると伝えられている。文学や音楽をこよなく愛していた教養高いドラクロワの趣味的傾倒を見出すことができる本作では、画面中へヴァイオリン演奏に没頭するパガニーニの姿のみが描かれる極めて簡素な画面構成が用いられているものの、そこに描き込まれるパガニーニの姿は、まさに悪魔に魂を売って手にしたと噂された程の演奏技術の迫真性に溢れている。また肌は浅黒く痩せこけていたと伝えられるパガニーニの風貌の印象を一見して連想することのできる、本作中の同氏の姿にはその音楽性と共に観る者を惹き付ける音楽家としての類稀な魅力も同時に感じることができる。これら演奏家の風貌は元より演奏的特徴すら(本作を)観る者に伝達するドラクロワの人物表現や、ドラマチック性や演奏家の性格を強く連想させる明暗対比の大きい場面表現は秀逸の出来栄えであり、今なお本作の目の前に立つ者を惹きつける。なおドラクロワは1838年にパガニーニと同様、当時の(そして今現在も)高名な音楽家(ピアニスト)であり友人でもあったフレデリック・フランソワ・ショパンの肖像も残している。

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アルジェの女たち

 1834年
(Femmes d'Alger dans leur appartement)
180×229cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス・ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワの傑作『アルジェの女たち』。ドラクロワが1832年に友人であったモルネー伯爵の誘いで政府使節団の一員として参加したモロッコ・ナイジェリアなど北アフリカ旅行でのスケッチに基づいて帰国後に制作された、1834年のサロン出品作でもある本作は、モロッコを訪れた後、最後の数日間滞在したアルジェリア最大の都市≪アルジェ≫の≪ハーレム(イスラム圏内における女性居室を指す)≫に住まう女たちを描いた異国情緒溢れる作品である。画面の中央へは2名、左側へは1名ハーレムの女らが配されているが、その様子はハーレム特有の気だるさと官能的な風俗性に富んでいる。彼女らが身に着ける豊かな色彩と文様による異国的な衣服は独特の情緒と異国的雰囲気を感じさせ観る者を強く惹きつける。さらに画面右側には女たちの従者である黒人女性が配され人物的対比が示されている。このような異国独特の風俗性や官能性、さらには東方的主題の扱いなども特筆に値するものであるが、本作で最も注目すべき点は類稀な色彩の妙にある。画面右上から差し込む北アフリカの強烈な陽光によって光と影の強い対比が示されているが、ドラクロワはその陰影の中に多様な色彩を見出し、色彩による対比でもそれを描写している。このような明度の差異に頼らない輝くような色彩の多様的使用は当時としては非常に画期的であり、この色彩の使用方法はピカソを始めとした20世紀の画家らにまで多大な影響を与えた。なお本作の東方趣味的主題や陰影の中に見出された色彩などに強く魅了された印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールは『オダリスク(アルジェの女)』や『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』など本作に着想を得た作品を複数制作している。

関連:ルノワール作 『オダリスク(アルジェの女)』
関連:ルノワール作 『アルジェリア風のパリの女たち』

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ジャウールとハッサンの戦い(ジャウールとパシャ)


(Le combat du Giaour et Hassan) 1835年
74×60cm | 油彩・画布 | プティ・パレ美術館(パリ)

19世紀フランス・ロマン主義の大家ウジェーヌ・ドラクロワを1830年代を代表する文学主題作品のひとつ『ジャウールとハッサンの戦い(ジャウールとパシャ)』。1835年に制作された本作は、英国ロマン主義文学を代表する詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(第6代バイロン男爵卿)が1813年に刊行した、キリスト教文化とイスラム教文化の中で濃密な人間関係を描いた異国情緒溢れる詩篇集≪ジャウール(異端者、邪宗徒。東方物語とも呼ばれる)≫に着想を得て、同作の一場面を絵画化した作品である(ドラクロワ自身、文学を愛好する人物であり、特にバイロンへ強い傾倒を示していたことが知られているほか、本作の構想自体は1824年頃から練られ始めていたことが研究によって明らかとなっている)。本作に描かれる場面≪ジャウールとハッサンの戦い(ジャウールとパシャの争い)≫は、主人公であるジャウールが恋人であった女奴隷レイラを殺害したパシャ・ハッサンへ戦いを挑み、激闘の末に復讐を果たすという内容で、画面中央から左側へ描かれる黒馬に跨りながら黒剣を突き立てんとするジャウールと、白馬に乗りながら短剣を振りかざすパシャ・ハッサンの複雑な構成による姿態はうねりにも似た類稀な躍動感と激しい運動性に溢れている。またジャウールが身に着ける赤色の薄胴着とパシャ・ハッサンが身に着ける緑色の薄胴着、さらに両者が跨る黒馬と白馬の色彩的対比が本作の造形的躍動に対して、より強調させる効果を生み出している。本作の劇的な場面展開に関しては17世紀フランドル絵画の巨人ピーテル・パウル・ルーベンスが残した、レオナルド・ダ・ヴィンチ幻の傑作『アンギアリの戦い』の模写からの影響が指摘されている。

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キリストの磔刑

 (Christ sur la Croix) 1835年
182×135cm | 油彩・画布 | ヴァンヌ市立美術館

フランスロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワを代表する歴史的主題作品のひとつ『キリストの磔刑』。ゴルゴタの丘、二人の盗賊の間のキリストとも呼称される本作は、自らユダヤの王を名乗り民を惑わせたとしてユダヤの大司祭カイアファやユダヤの民衆らがイエスを告発し、罪を裁く権限を持つ総督ピラトが手を洗い(ピラト)自身に関わりが無いことを示した為、受難者として司祭や民衆の望むゴルゴタの丘での磔刑に処されたという、教義上最も重要な主題のひとつ≪キリストの磔刑≫を主題に制作された作品で、完成後、政府の買い上げとなりヴァンヌ市のサン・パトラン聖堂へと納められている。画面中央上部に配される受難者イエスはやや斜めの視点から十字架上へ架けられた姿で絵が勝てれおり、その背後にはイコノグラフ(図像学)にも忠実な不吉な暗雲と雷光が表現されている。また受難者イエスの左右には同時に磔刑に処されたとされる盗人2名が描かれている(※左側の盗人はこれから十字架へ掲げられようとしている)。そして受難者イエスの十字架の元ではマグダラのマリアが涙を流し祈りの仕草を見せながら主の姿を仰ぎ、前景では聖母マリアと聖ヨセフが悲痛な表情を浮かべながら抱擁し合っている。バロック期における最大の画家ピーテル・パウル・ルーベンスが1620年に手がけた同主題の作品に明確な影響を受けている痕跡が示される本作は、構成的には過去の偉大なる巨匠らに準じる古典性を見出すことができるものの、磔刑場に集まるユダヤの民衆や司祭、ロンギヌスなどのローマ兵、そして信者らの虚無的な無力感や斜めの視点で描く空間構成による劇的効果、さらに色彩によって強弱が強められる前景と後景の明暗対比などドラクロワ独自の絵画的昇華性には特に注目すべきである。なお画面最前景(画面最下部)に描き込まれる髑髏と蛇は旧約聖書に記されるアダムとエヴァによる原罪(※エヴァは蛇に唆され、父なる神に口にすることを禁じられていた≪善悪の知識の実≫を食した)を償う者としてのイエスを暗示している。

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聖女たちに救われる聖セバスティアヌス


(Saint Sébastien secouru par les saintes femmes) 1836年
215×246cm | 油彩・画布 | ナンテュア教区聖堂

19世紀フランスロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワによる宗教画の代表的作例のひとつ『聖女たちに救われる聖セバスティアヌス』。同年のサロン出品作であり、国家の買い上げの後にフランス東部ジュラ地方ナンテュア教区聖堂に入った本作は、南フランスナルボンヌ出身のディオクレティアヌス帝付近衛兵(ローマ軍人)であったものの、殉教者らに声をかけられたことからキリスト教徒であることが発覚し、刑吏たちに杭に縛られた後、無数の矢を射られ、瀕死の状態に陥ったとされる聖セバスティアヌスを、看護婦の守護聖人としても知られる聖イレネが看病しその傷を癒したとされる≪聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス≫の場面を描いた作品である。前景として画面左側へ描かれる聖セバスティアヌスは背後に描き込まれる大樹に縛り付けられた後、肩や脇腹、脚などを矢で射られたために重傷を負い、刑に処された裸体のまま大樹に凭れ掛かり手足をだらりと広げ、その姿からは死に瀕している状態であることが明確に伝わってくる。そして画面中央に配される聖イレネが聖セバスティアヌスの様態を注視しながら、ゆっくりと確実に身体に刺さる矢を抜き彼の命を助けようと必死に介抱している。さらに画面右側には聖イレネの従者が処刑を終え帰路に着く刑吏たちを振り返りながら観察している姿が描き込まれている。本作の聖セバスティアヌスに示される肉体的苦痛と逞しく整った肉体美の対比、さらにはそれらと聖イレネの介抱という精神的な結びつきを叙情的に描写した表現は白眉の出来栄えである。また男性的な聖セバスティアヌスの肉体と肩が露わになる従者の丸みを帯びた女性的な肉体を形のみならず同系の色彩によっても表現する対比的手法も特に注目すべき点である。

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怒れるメディア(激怒のメディア)


(Médée furieuse) 1836-38年
260×165cm | 油彩・画布 | リール市立美術館

19世紀フランス・ロマン主義の偉大なる画家ウジェーヌ・ドラクロワの重要な神話主題作品のひとつ『怒れるメディア(激怒のメディア)』。本作はギリシア神話に登場する英雄イアソンが王位を継ぐ条件としてコルキス国へ遠征(黄金の羊皮の探索)の際に助けを受け、また互いに恋に落ちた魔女≪メディア≫とコリントスへ逃亡した時、同地の王女グラウケーに心変わりした英雄イアソンに激怒し、己のイアソンとの間に生まれた二人の子供に手をかけようとする場面を描いた作品である(※ただし現在ではこのメディアによる子殺しは古代ギリシアの大詩人エウリピデスの脚色であるとも考えられている)。画面中央やや右側に描かれる魔女メディアは(イアソンへの復讐心を顕著に感じさせるかのように)後方を振り返りながら嫉妬と狂気の炎を宿した瞳を大きく見開き、両手で二人の子供を抱えている。左手には短刀が力強く握られており、今まさにそれを子供たちへ突き立てんとしている様子である。メディアに抱えられる金髪の子供は頬を紅潮させつつ、その目には涙を溜めて必死に逃れようとしており、黒髪の子供は母メディアの手にする短剣に恐々とした視線を向けている。気性の激しさでも知られるメディアの狂気だけではなく、夫イアソンに対する情熱的なメディアの感情性や、その感情への裏切りに対する冷酷なメディアの性格なども見事に表現される本作にはドラクロワのロマン主義的特長がよく示されている。なおオパリのルーヴル美術館やベルリンの国立美術館には本作のヴァリアントが所蔵されている。

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タイユブールの戦い

 (La Bataille de Taillebourg) 1837年
485×555cm | 油彩・画布 | ヴェルサイユ宮国立美術館

フランスロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワの重要な歴史画作品『タイユブールの戦い』。オルレアン朝フランス国王ルイ=フィリップ1世の依頼によりヴェルサイユ宮≪戦争の間≫の装飾画として制作された本作は、フランス王国カペー朝第9代国王であり、ブルボン家の祖先としても知られる≪聖ルイ王(ルイ9世)≫が、英国王ヘンリー3世の守護するシャラント河にかかるタイユブール橋を突破し勝利を収めた1242年7月21日の戦い≪タイユブールの戦い≫を主題に制作された歴史画作品である。画面のほぼ中央へ配される理想のキリスト教の王とも評価された聖ルイ王は白馬に跨り左手には手綱を、右手には権杖を持ちながら勇猛果敢に戦いに臨む姿で描かれている。その周囲にはフランス軍、英国軍が入り乱れるかのように混沌とした戦闘の情景が人々でうねりを示すかのように描かれており、その表現はドラクロワ自身も影響を受けていた17世紀フランドル絵画の巨人ピーテル・パウル・ルーベンスの絵画様式を彷彿とさせるほど躍動と運動性に溢れている。さらに485×555cmと巨大な画面寸法であるにもかかわらず登場人物や構成要素を密集して描き込むことによって各々の距離感が緊密となり戦闘の激しさと緊張感をより強調させることに成功している。

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ウジェーヌ・ドラクロワの肖像(自画像)


(Portrait d'Eugène Delacroix) 1837年頃
65×54.5cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス・ロマン主義随一の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ充実期の代表作『ウジェーヌ・ドラクロワの肖像(自画像)』。本作は口髭など描かれる顔の特徴から画家が37〜40歳頃の己の姿を描いた≪自画像≫作品と考えられており、ドラクロワは生涯に数点しか自画像を残していないことが知られているが、本作はその中で最も完成度の高い作品として知られている。やや斜めに構え上半身のみを画面中央へ描き、背景など自身を含め説明的要素を一切排した非常に簡潔な自画像作品に仕上げられている本作のドラクロワの姿は、幼い頃から病弱であり数年前には咽頭炎を患った面影をまるで感じさせないほど鋭く、(本作と)対峙する者の内面まで入り込んでくるかのような視線をこちらへ向けながら口を真一文字に結んでいる。その表情からは自身の画業における充実と、その結果に対する野心的な将来像を見出すことができる。また身に着ける服装は、白いシャツに緑色の胴着、黒いマフラーと上着(ジャケット)と非常に洗練された組み合わせであり、自身の姿形に劣等感を抱いていた画家の性格が良く示されている。本作の表現手法に注目しても、素早く動かされた闊達な筆触による対象の瞬間を捉えるかのような描写や明部と暗部を強く対比させた感情性や心理的表現、抑えられた色数ながら陰影に絶妙な色味を加える独特の色彩描写などドラクロワのロマン主義的な傾向と様式がよく表れている。

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フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像


(Frédéric Chopin) 1838年
45.7×37.5cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス・ロマン主義の偉大なる巨匠ウジェーヌ・ドラクロワを代表する人物画作品『フレデリック・フランソワ・ショパンの肖像』。本作は19世紀前半期を代表するポーランド出身のロマン派の作曲家兼ピアニストで、そのピアノ曲は古今東西のピアニストらにとっては最も重要なレパートリーのひとつとして数えられる≪フレデリック・フランソワ・ショパン≫を描いた作品で、本来はオードロップゴー美術館(デンマーク王立美術館)に所蔵されるショパンと極めて近しい関係にあったフランスの女流作家≪ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係はマジョルカ島への逃避行の逸話でも良く知られている)≫の肖像画と合わせて一枚の作品であったことがルーヴル美術館に残されるデッサンによって判明している(※原図ではジョルジュ・サンドの前でピアノを弾くフレデリック・ショパンという形で描かれていた。切断されたのは1863-73年頃と推測)。音楽を愛していたドラクロワはショパンのピアノ曲に強く傾倒していたことが知られており、またジョルジュ・サンドに対してもその人間性に魅力を感じていた為、本作はそのような両者との関係性から生まれたのであろうことは容易に連想することができる。細部の描写などから未完であることが窺い知れる本作では、中空を仰ぐようにやや上部へ視線を向けるフレデリック・ショパンのどことなく夢想的な表情は彼が演奏に没頭している様子の現れであり、≪ジョルジュ・サンドの肖像≫で彼女が節目がちに眼を瞑りショパンのピアノに耳を傾ける姿と見事な呼応を示している。さらに柔らかくも強烈な明暗対比にはこの類稀な音楽家と文筆家の精神的内面の激しい情感を見出すことができる。

関連:『ジョルジュ・サンドの肖像』

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新世界より戻ったクリストファー・コロンブス

 1839年
(Christophe Colomb au retour du Nouveau Monde)
85×116cm | 油彩・画布 | トリード美術館(オハイオ)

フランスロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワを代表する歴史的主題作品のひとつ『新世界より戻ったクリストファー・コロンブス』。ワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵される『サンタ=マリア=デ=ラビダ修道院のコロンブス』と対の作品としても知られる本作は、ロシアの裕福な貴族デミドフ公の依頼により同氏がフィレンツェのサン=ドナートに所有する別荘の為に制作された、イタリア ジェノヴァ出身の探検家で、大航海時代での大西洋航路の発見(アメリカ大陸発見)で知られる≪クリストファー・コロンブス≫を主題とする歴史画的作品で、新世界(アメリカ大陸)の発見から帰還したコロンブスが、盛大な歓迎を受けながら、新大陸の珍しい土産物と合わせてスペイン国王夫妻(カスティーリャ国王夫妻)フェルナンド5世とイサベル1世へ報告をおこなう場面を描いたものである。画面中央の宮殿階段上には民族衣装を身に着けたコロンブスが配され、その下部には自身が新大陸で発見した偶像や黄金、毛皮など様々な珍品が描き込まれている。画面右側の階段上部には)フェルナンド5世、イサベル1世の国王夫妻がコロンブスの帰還の挨拶に興味深げな眼差しを向けており、画面左側にはこの歴史的偉業に立ち会う数多くの人々が丹念な筆捌きで描かれている。本作で特筆すべき点は、構図、特に画面右側部分の構図における過去の巨匠からの引用で、本作には明らかにヴェネツィアのアカデミア美術館へ所蔵されるルネサンス期 ヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノの代表作『聖母の神殿奉献(聖母マリアのエリサベツ訪問)』からの構図的影響が示されている。

関連:ティツィアーノ作 『聖母の神殿奉献』

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ドン・ジュアンの難破(ドン・ジュアンの難船)


(Le Naufrage de Don juan) 1840年
135×196cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランスロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワ1840年代の代表作品のひとつ『ドン・ジュアンの難破(ドン・ジュアンの難船)』。ドラクロワ自身も強く傾倒を示していた19世紀ロマン主義を代表する英国出身の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンが長編詩としても残している、17世紀セビーリャ(スペイン)の若き放蕩好色男≪ドン・ジュアン(※仏語表記。スペイン語ではドン・ファン、イタリア語ではドン・ジョヴァンニと呼ばれる)≫を主題として制作された作品である。本作に描かれる場面は、放蕩三昧で土地を追い出されたドン・ジュアンが外国へと向かうために船に乗るが、その船が難破してしまい、さらに漂流の末に食料も底を尽いた為、食物として搭乗者の犠牲となる者を選定するくじ引きをおこなっている場面である。画面中央へ配される何とも頼りない小船の上には、ドン・ジュアンを始め、数多くの人が乗り込んでおり、搭乗員は必ずいずれかの者が食料として犠牲となるくじ引きをおこなっているものの、その様子は動的な迫力というよりも高ぶる緊張感と高揚感に溢れている。また船の中央でくじ引きをおこなう複数名の者の食い入るようなくじへの集中とは対照的に船の両端では、(くじ引きの結果もあるのであろう)気力と体力を無くし疲れきった搭乗員たちが脱力的に倒れ込んでいる。ドラクロワは初期作『ダンテの小船』を始め、その生涯の中で小船の乗る人々をモティーフとした作品を複数手がけているが、本作の荒涼とした海上の雰囲気や様々な感情が渦巻く搭乗員らの微妙な感情表現には特に注目すべき点が多い。なお本作の主題≪ドン・ジュアン≫は様々な芸術家の作品に取り上げられたことでも知られており、18世紀中〜後期に活躍した古典派の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトや19世紀末に活躍した作曲家リヒャルト・シュトラウスなども同主題のオペラや交響詩を残している。

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トラヤヌスの裁定(トラヤヌスの正義)


(La justice de Trajan) 1840年
490×390cm | 油彩・画布 | ルーアン美術館

フランスロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワの歴史画作品のひとつ『トラヤヌスの裁定(トラヤヌスの正義)』。1840年のサロン出品作であり、画家自身も自信作と認めていた本作は、14世紀イタリアの最も重要な詩人兼哲学者であるダンテ・アリギエーリの傑作長編叙事詩≪神曲≫の煉獄篇 第10歌の場面≪皇帝トラヤヌスの裁定(正義)≫を主題とした作品である。本主題≪皇帝トラヤヌスの裁定≫は戦場に赴こうとする皇帝トラヤヌスの前に、殺害された己の息子の裁定を求める婦人が現れ、当初は彼女の訴えを疎んじていたものの、その話の正当性に気づき公平な裁定をおこなったとする≪高位者の謙虚性≫を表した内容で、本作では画面右側へ白馬に跨り戦場へ駆け出さんとする皇帝トラヤヌスが、画面左側下部へ皇帝へ必死に訴える婦人の姿が描き込まれ、その周囲には白馬を宥めようとする者、力ずくで婦人を退けようとする者、出立の喇叭を吹き鳴らす者など皇帝の様々な家臣らが配されている。本作で特に注目すべき点は激しい運動性による濃密で力動的な場面・人物描写と画面構成にある。16〜17世紀ヴェネツィア派に建築物の意匠を倣いながら、現在もローマ市内に現存する16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの騎馬像に着想が得られるトラヤヌスの勇壮な姿や、大きく両手を広げる仕草で息子の死に対する激情的な感情を表す婦人の描写などはドラクロワ自身が自画自賛するのも頷けるほど秀逸な表現であり、今なお観る者の眼を惹きつける。なお本作は完成後、ボルドー市(後のルーアン市)のために国家の買い上げとなった。

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十字軍のコンスタンティノポリス占拠
(十字軍のコンスタンティノープル入城)


(La prise de Constantinople par les croisés) 1841年
411×497cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランス・ロマン主義最大の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワの代表作『十字軍のコンスタンティノポリス占拠(十字軍のコンスタンティノープル入城)』。1830年にフランスで起こった七月革命で同国の君主に即位したオルレアン朝フランス国王ルイ=フィリップ1世の依頼により、ヴェルサイユ宮の同王の為の≪十字軍の間≫の歴史画として制作された本作は、フランスが主導権を握っていた第4回十字軍遠征の際に、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略・陥落(※この攻略の際、十字軍は同地で暴虐の限りを尽くしたと伝えられている)させたという、同遠征の中で最も知られる逸話≪十字軍のコンスタンティノポリス占拠(十字軍のコンスタンティノープル入城)≫を主題とした作品である。画家自身、『キオス島の虐殺』『サルダナパロスの死(サルダナパールの死)』と並んで≪3つの虐殺画≫と呼称していた本作では画面中景から遠景にかけてその十字軍の凄惨な虐殺の光景が描き込まれているものの、画面前景ではむしろ十字軍の勝利の姿ではなく、この戦闘の犠牲者である東ローマ帝国の民衆の必死で生きようとする姿をドラクロワは描き出している。画面下部中央よりやや左側へはコンスタンティノープルへ侵入する(フランドル伯ボードゥアン9世率いる)十字軍に対し家族を助けようと必死に慈悲を乞う老人の姿が、右側には息絶えた(おそらく姉妹であろう)家族を抱き寄せ悲しみに暮れる若い娘の姿が、そしてその上部へは両手を背中で縛り上げられた捕虜が痛ましい姿で描かれている。画面の中へ描き込まれる人間の生に対する強い執着と強者と弱者の対比的な人間性の表現はドラマチックな印象を感じさせるドラクロワの作品の中でも白眉の出来栄えであり、今も観る者を魅了する。

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オフィーリアの死

 (La mort d'Ophélie) 1845-53年頃
23×30.5cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ屈指の代表作『オフィーリアの死』。数度のヴァリアントを経て完成に至った本作は、世界で最も著名な劇作家のひとりで、当時フランス国内のロマン主義者らに熱狂的に支持された(英国出身の)ウィリアム・シェイクスピアが手がけた四大悲劇のひとつ≪ハムレット≫第4幕7章を主題に、デンマーク王子ハムレットが父を毒殺して母と結婚した叔父に復讐を誓うものの、その思索的な性格のためになかなか決行できず、その間に恋人オフィーリアを狂乱に追いやった末、小川で溺死させてしまう悲劇的場面を描いた作品である。本作で画面中央に描かれるオフィーリアは小川の流れに揺蕩いながら、今まさに溺れて散らんとするその命を右手で小枝を掴みながら必死に繋ぎ止めている姿で描かれている。物語上、オフィーリアは抵抗空しく絶命してしまうものの、ここに描かれる彼女の悲劇的でありながら叙情性が際立つ姿は観る者を強く惹きつける。さらに本作で注目すべき点は、小作ながら際立つ画面構成の力動感と色彩表現の秀逸さにある。オフィーリアは小枝を掴む右手・右腕以外は非常に脱力的であり瀕死の状態が如実に表されているが、だからこそ命を繋ぎ止める右腕との対比が際立っている。ここにドラクロワの見出したシェイクスピア文学へのロマンチシズム的精神性の絵画的展開を見出すことができる。そして水面の直下で僅かに透き通りながら揺れるオフィーリアの身に着ける衣服の多様な色彩による表現や、オフィーリアへと当てられる光彩設計の効果は眼を見張る出来栄えを示している。なお画家は本作を手がける前に同主題の石版画と油彩画(1838年。ノイエ・ピナコテーク所蔵)を制作している。

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キリストの埋葬


(La mise au tombeau ou Christ au tombeau) 1848年
161.3×130.5cm | 油彩・画布 | ボストン美術館

19世紀フランス・ロマン主義の偉大なる巨人ウジェーヌ・ドラクロワ屈指の傑作『キリストの埋葬』。本作は新約聖書4福音書全てに記される、磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸を十字架から降ろしゴルゴタの丘の墓へと納める場面≪キリストの埋葬≫を主題とした作品で、ドラクロワは手がけた宗教画の中でイエスの受難を題材(画題)とした作品を最も多く手がけているが、本作はその代表的作例として広く認知されている。画面中央下部に配される受難者イエスの亡骸は生気を全く感じさせない土気色を帯びつつ、胸部あたりの肌が強い光によって白く反射している。そして聖母マリアはイエスの頭部に手をかざしながら悲観に暮れ、その背後ではマグダラのマリアが聖母を支えながら虚ろな表情を浮かべている。さらに画面前景へは聖ヨハネが受難者イエスが被っていた荊の冠を手に項垂れる姿が描写されている。終焉を感じさせる黒雲立ち込める空模様と広遠とした空間構成の中で表現される本作の受難者イエスの死は、それまでのドラクロワの宗教画とは大きく異なり、まるでフランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンを連想させる静謐性と非運動性を感じることができる。特に悲しみに打ちひしがれながら死者をゴルゴタの墓へと運ぶ登場人物の鎮痛な感情を場面全体の雰囲気でも描写される本作の、ある種の表現的古典性にはドラクロワの表現様式の多様性を明確に見出すことができる。

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大蛇の神ピュトンに打ち勝つアポロン


(Apollon vainqueur du serpent Python) 1850-51年
800×750cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀ロマン主義を代表する画家ウジェーヌ・ドラクロワが手がけた公共建築への装飾作品の重要作『キリストの磔刑大蛇の神ピュトンに打ち勝つアポロン』。画家が52歳の時に政府からルーヴル宮アポロンの間(ギャルリー・ダポロン)の天井装飾画の依頼を受け制作された本作は、古代ローマの伝説的な詩人オウィディウスによる傑作詩篇≪変身物語(転身物語)≫に記される≪太陽神アポロン≫の逸話を典拠とした、まさにアポロンの間のための作品である。本作に描かれる場面は古代ギリシアの都市国家デルポイの地(パルナッソス山の麓に存在したとされる伝説的な都市)を守護していた予言の力を有する巨大な雌蛇ピュトンを、神託所を設けるために大地の母神ガイアに代わって退治する太陽神アポロンであり、ドラクロワは本作を手がけるにあたりベルギーの都市アントウェルペンへ赴き同地出身の偉大なる画家ピーテル・パウル・ルーベンスの作品を研究し多くの着想を得ていることが知られている。画面中心に描かれる太陽神アポロンは他の神々の助勢を受けながら黄金の四頭立て戦車(凱旋車)に乗り怪物ピュトンに向けて弓を引く姿で神々しく描かれている。その弓の先には既に数本の矢で射られ鮮血を滴らせながら威圧するかのように牙を剥く巨蛇ピュトンが配されており、さらに(本図において)画面最上部にはこの物語の結末を示すよう勝利の冠を授ける女神が描き込まれており、神と邪、勝利と敗北、そして野蛮に対する文明の勝利の寓意という構図が見事に展開している。画家のダイナミズム溢れる場面展開と複雑で多様な色彩がより装飾性を際立たせる本作は、後に象徴主義の画家オディロン・ルドンが手がけたアポロンを主題とした作品の曙光となった。

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山峡におけるアラブ人たちの戦い


(Combat d'arabes dans la montagne) 1863年
92×74cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

19世紀のフランスで活躍したロマン主義絵画の偉大なる巨人ウジェーヌ・ドラクロワ最晩年期を代表する作品『山峡におけるアラブ人たちの戦い(アラブ人たちの山間での戦闘、アラビアでの税の徴収)』。本作はドラクロワが北アフリカ旅行中(1832年)にモロッコの外務大臣から「ここでは橋が少なく人の動きが限られるため、盗賊(山賊)を捕まえるのも、税を徴収するのも容易だ」という話と、同地の勇壮で広大な風景の思い出に典拠を得て、≪アラビアの兵士と山賊との徴税をめぐる戦闘≫を主題に手がけられた作品である。画面下部左側には近景として戦闘で負傷したのであろう横に倒れる大きな馬と大地に放り出されたアラブ兵士が配され、そこから右斜め上(画面中央右部)へ小さな土手に隠れながら山賊たちに発砲攻撃をおこなう兵士らが、さらに中景としてその左斜め上(画面中央左部)には必死にアラブ兵士らに抵抗する山賊の集団が描き込まれている。そして山賊の集団の上部には遠景として丘上の城(山賊らの棲家)が配置され、画面全体として画家の晩年期の大きな特徴である描かれる要素(モティーフ)によるZ字形の構図構成が形成されている。また描写表現に注目しても、構図構成によって強調される各登場人物の激しい運動性や北アフリカの強い陽光を感じさせる多様な色彩、さらには褐色的な戦闘場面(大地)と抜けるような青空との色彩対比の秀逸さは本作の特筆すべき点として挙げることができる。なお『アラビアでの税の徴収』という呼称はロボー伯が呼んだことに始まっている。

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ヤコブと天使の戦い

 1861年
(La lutte de Jacob avec l'ange)
751×485cm | 油彩・画布 | サン・シュルピス聖堂

フランス・ロマン主義最大の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ最晩年期の傑作『ヤコブと天使の戦い』。7点から構成されるパリのサン・シュルピス聖堂≪聖天使礼拝堂(サン・ザンジェ礼拝堂)≫装飾画の制作依頼を受けたドラクロワがふたりの信頼できる助手と共に12年の歳月をかけて手がけた本作は、旧約聖書 創世記36章24-32に記される≪ヤコブと天使の戦い≫を主題とした壁画作品である(東側壁面に描かれた)。本作の主題≪天使とヤコブの戦い(神とヤコブの戦い)≫は、兄エサウの怒りから叔父の許へ逃れていたイサクとリベカの次男ヤコブが、兄と和解するために妻ラケルと羊を連れ旅立った途中、ペヌエルの地の急流(ヤボク)を渡ることを天使に禁じられ一晩中(ヤコブと天使が)格闘をおこなうことになり、最後にはヤコブが勝利し、天使からイスラエルと名乗ることを許されたとされる逸話で、ドラクロワ自身は≪選ばれし者が神から与えられる試練≫の寓意との解釈を語っている。画面中央左側には鬱蒼とした森の中で天から遣わされる天使とヤコブが組み合い格闘する姿が配されており、ヤコブの足元には一本の剣が、その右下には(ヤコブ自身のであろう)旅の道具や衣服が鮮やかな色彩で描き込まれている。さらに画面右側には旅の一団が、画面上部には巨大な樹木が入念な筆捌きで描かれている。主題を自然の中で描く独創性(※本主題は建築物を背景にするのが一般的であった)やミケランジェロからの影響が指摘される天使とヤコブの隆々とした肉体表現、鮮烈な色彩表現などには結核性咽頭炎に罹っていた老齢の画家の衰えない創作精神を顕著に感じるほか、本主題の扱いから画家の孤高と苦悩に満ちた画業における刻苦の軌跡を暗示しているとも解釈することもできる。なお後期印象派の画家ポール・ゴーギャンは、傑作『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』の制作で本作からの影響を受けたとされている。

関連:ゴーギャン作 『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』

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Work figure (作品図)


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