Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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フランシスコ・デ・ゴヤ Francisco de Goya
1746-1828 | スペイン | ロマン主義




近代絵画の創始者の一人として知られるスペインの巨匠。1780年サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められ、王室や貴族の肖像画を描く。その写実的な作風が当時飽食気味であったロココ美術に変わるものとして支持を受け、1786年国王付の画家、1786年、新国王になったばかりのカルロス4世の任命から宮廷画家となるが、1790年代に入ると聴覚の喪失、知識人との交流を経て、強い批判精神と観察力を会得。1801年に王室を描いた作品『カルロス4世の家族』を制作。また当時のスペインはフランス軍の侵入もあり、自由革命や独立闘争などの争いが絶えなかったという情勢もあり、その時期には『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』や、住んでいた家の壁に描いた連作『黒い絵』など数々の名作を描いた。1824年フランスに亡命し、ボルドーで死去。享年82歳。
※2009年1月下旬、それまでゴヤの代表作とされてきた『巨人』について、所蔵先であるプラド美術館は表現、様式、署名などを綿密に検証をおこなった結果、該当作品を弟子、又は追随者の作品であると結論付けた報告書を公表した。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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日傘

 (El quitasol) 1777年
104×152cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

18世紀のスペインで活躍した巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ初期を代表する作品のひとつ『日傘』。本作は画家がサンタ・バルバラ王立タピスリー工場の原画画家として活動していた頃、当時の皇太子夫妻(後のカルロス4世及びマリア・イルサ)の依頼により、同夫妻が住んでいたエル・パルド宮食堂の装飾用タピスリーのための原画のひとつとして制作された作品である。ゴヤを始め複数の画家が原画を手がけた総数63枚にも及ぶ装飾用タピスリー共通の主題は≪愉快に余暇を過ごす民衆≫であるが、本作には当時のゴヤの絵画に対する意欲や挑戦、流行性と様式的傾向が良く示されており、画家を研究する上で欠かすことのできない重要な作品に位置付けられている。画面中央へ配されるマハ(※スペインにおいて伝統的で粋な女性の総称)として描かれた若い娘は流行を感じさせる鮮やかな色彩(ここでは青色)の衣服と黄色のスカートを身に着け、膝の上に子犬を乗せながら土手の上で座っており、傍らの若い男(こちらはマホを連想させる)が若い娘のために日傘を差し出している。そして背景として画面左側にはやや背の高い壁が中央には雲がかかった青空が、画面右側には青々と茂る木々が配されている。本作の主題選定にはジャン・オノレ・フラゴナールによる連作『恋の成り行き』やニコラ・ランクレの作品に基づいた版画など18世紀フランスロココ美術で成立した≪雅宴画(フェート・ギャラント)≫との関係性が指摘されている。また若い男女と男が持つ日傘で三角形の構図が形成される本作の表現的特長に注目しても、日傘によって微妙に変化する若い娘の顔の陰影の描写や明瞭かつ軽快な色彩による衣服の表現などは秀逸の出来栄えであり、絵画に対する高い意欲が感じられる。さらに本作においては下級階層の者にとっては特別な存在であったマハとマホ(※非合法的な活動もおこなっていた)を画題として選定するという人間観察的な側面も見出すことができ、ゴヤの世相や人間への高い関心も示されている点も特に注目すべきである。

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盲目のギター弾き

 (Ciego de la guitarra) 1778年
260×311cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

ロマン主義の偉大なる画家フランシスコ・デ・ゴヤ初期を代表する作品のひとつ『盲目のギター弾き』。本作はゴヤがサンタ・バルバラ王立タピスリー工場の原画画家として活動していた頃、当時の皇太子夫妻(後のカルロス4世及びマリア・イルサ)の依頼により、同夫妻が住んでいたエル・パルド宮寝室の装飾用タピスリーのための原画(下絵)のひとつとして制作された作品で、画題に≪盲人の乞食的辻音楽師≫がギターを弾く姿を描いた画家の野心的側面の強い作品である。登場人物の多さなどによってタピスリー工場から制作に不適当とされ(※表向きにはこのような理由であったが工場の本意的には主題そのものが不適当であったとの判断と推測される)、実際には単純化された画面構成にてタピスリー化された本作では、画面中央よりやや左側に幼く腕白な少年を伴いながら高らかとギターを奏で歌い上げる盲目の辻音楽士が描かれており、その表情は同氏の貧しさや境遇を強調するかのように歪んでいる。また盲人のギター弾きの周囲には盲人と対照的な地位にある貴族の姿や黒人の水売り、一般民衆、マホやマハ(※小粋な男や女を意味する)たちが群集的に描き込まれており、その生命力に溢れる活き活きとした姿からは喧騒すら感じることができる。本作で最も注目すべき点は、やはり≪盲人≫という主題(画題)そのものにある。本作はゴヤの作品の中でも、社会的弱者が登場する最も初期の作品としても知られており、特に健常とは明らかに異なる≪盲人≫を扱ったことは、ある種の社会から除外された存在に対する画家の強い関心の表れとして認識することができる。

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キリストの磔刑

 (goya_cristo) 1780年
255×153cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

スペイン絵画界の偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ初期を代表する宗教画作品『キリストの磔刑』。ゴヤが1780年に制作し、同年の5月5日にマドリッドの王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ提出された、画家の同アカデミー入会審査作品としても知られる本作は、新約聖書に記される、自らユダヤの王と名乗り民を惑わしたという罪状で受難者イエスがユダヤの司祭から告発を受け、罪を裁く権限を持つ総督ピラトが手を洗い、自身に関わりが無いことを示した為、ユダヤの司祭らの告発どおりゴルゴダの丘で2人の盗人と共に磔刑に処された教義上最も重要視される場面のひとつ≪キリストの磔刑≫という当時最も社会的地位が高かった主題のひとつ宗教を扱った作品である。画面中央へ描かれる受難者イエスは父なる神に訴えかけるように天を仰ぎながら苦悶の表情を浮かべているが、その姿は若きゴヤの支援者でもあった同時代のスペイン画壇の重鎮アントン・ラファエル・メングスの作品を模するかのように、端整に理想化された肉体描写がおこなわれている。このゴヤとしては極めて異例的な新古典主義表現は、本作が制作される前年に死去したメングスへの哀悼と、保守的な古典様式が尊ばれていた当時のアカデミー入会審査に合格するという目的意識を明確に感じることができる。さらに受難者イエスの両足は重ねられることなく平行にされ、両手と合わせると計四本の杭で打ち付けられる姿はセビーリャの伝統的なイコノグラフ(図像学)に基づいており、同地出身である17世紀スペインにおける最重要画家ディエゴ・ベラスケスによる同主題の作品『キリストの磔刑(サン・プラシドのキリスト)』からの引用が如実に示されている点も特筆に値する。

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ルイス・デ・ボルボン親王一家の肖像


(Familia de Infante Don Luis Borbón) 1783年
248×330cm | 油彩・画布 | マニャーニ=ロッカ財団

スペイン・ロマン主義最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤを代表する集団肖像画作品のひとつ『ルイス・デ・ボルボン親王一家の肖像(ドン・ルイス親王の家族)』。本作はスペイン屈指の美術愛好家としても知られていた当時のスペイン国王カルロス3世の末弟で、アラゴン地方出身の下級貴族の娘マリア・テレサ・バリャブリガと結婚したことから国王に疎まれ宮廷社会から追放された≪ドン・ルイス・デ・ボルボン親王≫一家がアビラ近郊アレーナス・デ・サン・ペドロでの隠遁生活の場面を描いた集団肖像画作品である。画面中央へは髪結師に就寝用の調髪をさせる親王の若き妻マリア・テレサ・バリャブリガが、その傍らにはカード遊びに興じるドン・ルイス親王が配されている。そして彼らの周囲となる画面右側には執事や給仕らが描きこまれているが、その中には当時を代表するイタリアの宮廷音楽家ルイジ・ボッケリーニの姿を確認することができる(画面右から3番目の男)。また画面左側にはドン・ルイス親王の娘で後に宰相マヌエル・デ・ゴドイの妻となるチンチョン女伯爵(マリア・テレサ)の幼き姿など親王の子供らが配されると共に、画面左下へ若きゴヤ自身の姿も描き込まれている。1780年代のゴヤの作品の中でも特に巨大な寸法で制作されている本作は、集団肖像画の画題としては風変わりな場面設定が為されるものの、芸術家を庇護したドン・ルイス親王とその一家の日常的一面が見事に捉えられていると共に、群像作品としての構図・構成の妙には一目すべき点が多い。

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悔悛しない瀕死の病人に付き添う聖フランシスコ・ボルハ


(San Francisco de Borja asiste a un Moribundo impenitente)
1815年 | 350×300cm | 油彩・板 | バレンシア大聖堂

スペインロマン主義最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ初期を代表する宗教画作品のひとつ『悔悛しない瀕死の病人に付き添う聖フランシスコ・ボルハ』。画家の有力なパトロンでもあったオスーナ公爵夫妻の依頼によって、バレンシア大聖堂にある同家の礼拝堂の祭壇画として制作された本作は、スペインの名門貴族ボルハ家出身のイエズス会士≪聖フランチェスコ(フランシスクス・ボルジア)≫が、瀕死の若者に付き添う姿を描いた作品で、ゴヤの人間の内面に潜む暗く激しい情念が示された最初期の作品としても知られている。画面中央右側に配される聖フランシスコ・ボルハはベッドの上で死を迎えつつある若者の傍らで、目に涙を浮かべながら両腕を大きく広げている。右手には磔刑の十字架が握られているが、おそらく悔悛をおこなわない若者が聖フランシスコ・ボルハの差し出す十字架に(悔悛の証である)口づけをしなかったのであろう、十字架からは鮮血が若者に向かって噴き出ている。そして画面右側でベッドに横たわる瀕死の若者の背後には、死によって肉体から乖離する魂の捕獲を待ち望む悪魔らが、若者の死を今や遅しと待ち構えている。本作の死を目前にしてなお悔悛せぬ若者と、若者の精神的象徴たる悪魔らの描写は、人間の精神に内包される暗く影がかった内面性の表れであり、その点の表出において最初期の作品として知られる本作は特に注目されている。また本作の主題そのものにおいても、名門家出身ながら財産を全て放棄しイエズス会に入会した聖フランシスコ・ボルハには、イタリアへとイエズス会を追放したカルロス3世(1716-1788)に代表される権力者からの抑圧に対する強い関心を見出すことができる。なおスペイン東部アラゴン地方で最も高貴であったボルハ家出身で、アラゴン王フェルナンド2世の曾孫としても知られる聖フランシスコは、本作を依頼したオスーナ公爵の祖先であるとされているほか、本作に描かれる悪魔たちは画家が後年発刊した版画集「カプリチョス」にも登場するため、初期の作品でも重要視される。

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トビアスと大天使ラファエル


(Tobias y el Arcangel Rafael) 1788年頃
63.5×51.5cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

18世紀後半から19世紀前半まで活躍したスペインロマン主義の偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが1788年に制作した注目すべき宗教画作品のひとつ『トビアスと大天使ラファエル』。本作は旧約聖書外典トビト書に記される≪トビアスと天使≫を主題とした作品である。本場面は主題中、父トビトの目の病(盲目)を治す方法を得るため大天使ラファエルと共に旅立った息子トビアスが、旅の途中、ラファエルの導きにより夕暮れのティグリス河で大魚を獲る場面を描いたもので、トビト書にはここでトビアスが得た大魚の胆のうで父の病を治したとされている。画面中央に配される大天使ラファエルは両手を広げた姿態で描かれており、白い後光をまとうその姿は(太陽神など)古代の神々を連想させる。またラファエルの足許で跪くトビアスは忠誠心深い眼差しを大天使へと向けており、両者の調和的な関係性を感じることができる。このトビアスの主題は伝統的に新約聖書≪聖家族≫の予兆とされており、父の病を治す薬を得たトビアスは主イエス(救済と贖罪)や純潔の象徴とされている。本作の制作意図としては当時の一般的な解釈であった≪家族のために息子を旅立たせ(働かせ)る≫商業的な思想から商人からの注文によるものとする説のほか、大天使ラファエルは癒し(治癒)を司ることから制作当時、天然痘を煩っていた画家の息子ハビエルのための主題とする説(=画家本人のための作品)も唱えられている。

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オスーナ公爵夫妻とその子供たち


(Duqueses de Osuna y sus hijos) 1788年
225×174cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

18世紀ロマン主義の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤを代表する肖像画作品のひとつ『オスーナ公爵夫妻とその子供たち』。本作は依頼主である第九代オスーナ公爵が1788年、父の死去によって爵位を継いだ際に制作された≪家族肖像画(集団肖像画)≫作品である。画面の最前景には夫妻の四人(二男二女)の愛らしい子供たちが自然な姿態で配され、末子こそ床に置かれた緑色のクッションに座りつつ玩具の馬車に付けられた紐を手にした姿であるものの、他の子供たち、特に二人の娘たちは夫妻に手を握られながら立直している。オスーナ公爵の妻であり、聡明かつ豊かな知性、品位の高さで上流階級層(有資産階級層)の人々に名が知られていたベルベンテ女公爵は質の良さそうな椅子に腰掛けた姿で、そしてオスーナ公爵は画面最後方の位置で家族を守り慈しむかのように自然に両手を広げた姿態で描き込まれている。オスーナ公爵、そして妻ベルベンテ女公爵はゴヤの良き理解者であり、かつ重要な支援者(パトロン)でもあった(※その支援関係は終生続いた)夫妻とその子供たちを描いた本作で特に注目すべき点は人物が身に着ける衣服にある。オスーナ公爵こそ父である先代の死去に伴うよう半喪服的な衣服を身に着けているが、ベルベンテ女公爵夫人や娘らは当時最も流行していた最先端のフランス風ボロネーズのドレスに身を包んでいる。本作にはこの最先端の衣服によって観る者の視線を誘引させる目的が明確に示されており、事実、観る者はベルベンテ女公爵やその娘らが身に着けるドレスの柔らかで洗練された質感、シルエットに惹きつけられる。そして背景の絶妙な明暗の対比や輝くような色彩描写がその効果をさらに強めることに成功している。

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黒衣のアルバ女公爵

 (Duquesa de Alba) 1797年
210×149.5cm | 油彩・画布 | アメリカ・ヒスパニック協会

18世紀スペインの最も偉大な画家フランシスコ・デ・ゴヤの極めて私的な作品『黒衣のアルバ女公爵』。本作は(おそらくはほぼ確実に)ゴヤと愛人関係にあったアルバ女公爵≪マリア・デル・ピラール・カイェターナ≫の全身肖像画である。1762年にスペイン随一の貴族アルバ公爵家に生まれ、14歳の時に第13代アルバ公爵位を継承したマリア・デル・ピラール・カイェターナは、美貌、性格、財産、家柄など全ての面において当時のスペイン社交界で傑出した存在であり、最も魅惑に溢れた人物として人々の注目を集めていた女性で、本作を手がける以前にもゴヤは『白衣のアルバ女公爵』などアルバ女公爵の肖像画を制作しているものの、夫を亡くしたアルバ女公爵が1796年の夏にサンルカールの別荘に滞在していた時に画家も同別荘へ訪れるなど、この頃、両者の関係は極めて親密であったと考えられている。画面中央へ配される黒い喪服を身に着けたアルバ女公爵はやや斜めに立ち、本作を観る者へと真っ直ぐ視線を向けている。速筆的でありながらも丹念に描き込まれる衣服の細やかな描写や絶妙な対比をみせる色彩、アルバ女公爵の存在感を際立たせる簡素かつ明瞭な背景や光彩表現なども特筆に値する出来栄えであるが、本作において最も注目すべき点は、やはり意味深げなアルバ女公爵の姿態にある。アルバ女公爵の右手の中指にはめられる黄金の指輪には≪Alba(アルバ)≫と刻まれており、さらに人差し指は示す地面には≪Solo Goya(ゴヤだけ)≫と記されている。この大地に記された≪Solo Goya≫の文字は近年おこなわれた洗浄によって浮かび上がってきたものであり、絵の具で重ね塗りされ隠蔽されていた意味からも両者の関係が秘匿的であったことを如実に物語っている。しかしながら本作が完成した時点で、両者の関係に何らかの不和が生じたのであろう本作はアルバ女公爵に渡されず、画家は手元に残している(※出版はされなかったものの、ゴヤが手がけた版画の中に両者の関係の終焉や離別を思わせる作品が残されている)。なおアルバ女公爵は1802年、40歳という若さで死去しており、その死については今も謎が残されている。

関連:1795年年頃制作 『白衣のアルバ女公爵』

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ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像


(Gaspar Melchor de Jovellanos) 1798年
205×133cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

18世紀スペイン・ロマン主義の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた肖像画の代表的作例のひとつ『ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像』。本作はゴヤの友人であり、また重要なパトロンのひとりでもあった、自由主義を代表する政治家兼スペイン・ロマン主義の詩人≪ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノス≫の肖像画作品で、ホベリャーノスが法務大臣に就任した翌年となる1798年に制作された。ホベリャーノスは当時の異端審問に疑問を呈し、農業改革など近代化を推し進める政策で知られ、当時のスペインの批判的精神を代表するかのような人物であり、この博学な政治家は早くからゴヤに対して深い理解と擁護を示していたことが知られている。残される書簡などからマドリッドではなく法廷が開催されていたアランフェスで制作されていたことが判明している本作では、画面のほぼ中央へホベリャーノスが椅子に腰掛け豪奢な机の肘を付いた姿勢で配されているが、やや虚ろな表情やこの姿態は「憂鬱性(メランコリー)」を示しているのは明白である。また右手には四つ折の書簡らしきものを手にしており、諸外国にも通じる18世紀の慣習的な構図が用いられながらも尊大な印象はなく、温和でより自然体なホベリャーノスの雰囲気を感じることができる。さらに画面右上にはホベリャーノスの精神性や性格性を表すかのように、盾を手にする知恵(学問)と芸術を司るローマ神話の女神ミネルウァ(※ギリシア神話の女神アテネと同一視される)の彫像が配されている。後にホベリャーノスは宰相となったヌエル・デ・ゴドイによって、政治犯としてマジョルカ島に幽閉される憂き目に遭うものの、本作からは同氏の知的な人物像をよく感じることができる。

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魔女の夜宴(魔女の集会)

 (Aquelarre) 1797-98年
44×31cm | 油彩・画布 | ラサロ・ガルディアーノ美術館

18世紀スペイン絵画界最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ1790年代を代表する作品のひとつ『魔女の夜宴(魔女の集会)』。マドリッドのラサロ・ガルディアーノ美術館に所蔵される本作は、画家の重要なパトロンであったオスーナ公爵の依頼により、同氏がマドリッド郊外に所有していた別荘(別宅)エル・カプリーチョのベルベンテ夫人(女公爵)の私室の装飾画として制作された、妖術や魔術と演劇を主題とする連作群≪魔女6連作≫の中の1点である。エル・カプリーチョで開催される音楽会や舞台の参加者でもあった、当時を代表する新古典主義の劇作家モラティンが当時執筆していた≪1610年のログローニョの異端審問≫の一場面に着想を得て制作された本作では、画面中央へ三日月が浮かぶ深夜に、悪魔の化身とされる牡山羊へ供物(生贄)として赤子を差し出す魔女たちが描かれており、その様子からは異端的な儀式を容易に連想することができる。牡山羊へと差し出される赤子は殆ど痩せ衰え、その待遇の過酷さを物語っており、さらに中景として画面中央左側には贄として捧げられた赤子らの末路が示されている。この魔女の夜宴はバスク地方アケラーレ山中でおこなわれていたと迷信的に伝えられており、ゴヤはこの魔女伝承へと強い興味を抱き、自身の様式的特徴となる人間の内面的な退廃や蛮風に示される本質的真意を模索しがら本作を手がけたとも解釈することができる。

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裸のマハ

 (La Maja Desude) 1798-1800年頃
97×190cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤ屈指の代表作『裸のマハ』。本作は画家が≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)を描いた作品で、バロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』と共に厳格なカトリック国家で、神話画を含む如何なる作品であれ裸体表現に極めて厳しかったフェリペ4世統治下のスペインにおいて制作された非常に希少な裸婦像作品であるが、ゴヤは本作を描いた為に、制作から15年近く経過した1815年に異端審問所に召還されている。本作のモデルについては古くから論争が絶えず、諸説唱えられているが、現在ではゴヤと深い関係にあったとも推測されるアルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・カイェタナとする説(画家自身が異端審問所に召還された際に証言したため)、画家の重要なパトロンのひとり宰相ゴドイの愛人ペピータとする説(作品制作の依頼主と推測されるため)、ゴヤの友人で神父バビが寵愛していた女性とする説(ゴヤの孫マリアーノが証言しているため)などが有力視されている。本作において最も注目すべき点は、その類稀な官能性にある。ベラスケスの『鏡のヴィーナス』が理想化された裸体表現の美とするならば、本作は自然主義的な観点による豊潤で濃密な裸婦表現の美と位置付けられ、特に横たわるマハの丸みを帯びた女性的肉体の曲線美や、単純ながら心地よい緩やかなリズムを刻む画面(の対角線上)への配置などはゴヤの洗練された美への探究心と創造力を感じさせる。また挑発的に観る者と視線を交わらせる独特の表情や、赤みを帯びた頬、そして計算された光源によって柔らかく輝きを帯びた肢体の描写などは、本作がスペイン絵画屈指の裸婦作品としての存在感を十二分に示す最も顕著な要因のひとつである。

関連:フランシスコ・デ・ゴヤ作 『着衣のマハ』

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着衣のマハ

 (La Maja Vestide) 1798-1803年頃
95×190cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた数多くの作品の中でも最も有名な作品のひとつ『着衣のマハ』。本作は画家が≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)を描いた作品で、『裸のマハ』を制作した翌年以降(1800-1803年頃?)に手がけられたと推測されている。本作と『裸のマハ』は画家の重要なパトロンのひとりで、権力を手にしてから皇太子や民衆を始め様々な方面から非難を浴びせられた宰相ゴドイが所有しており、その為、一般的にはこの2作品は宰相ゴドイが制作を依頼したものだとする説が採用されている。『裸のマハ』と同様の姿勢・構図で描かれる本作であるが、『裸のマハ』との最も顕著な差異は、マハは当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れたトルコ風の衣服に身を包み、化粧も整えている点である。これらの描写はゴヤ特有のやや大ぶりな筆触によって繊細ながら表情豊かに表現されているほか、色彩においても黒色、金色、緑色、紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の雰囲気や質感を見事に表現している。本作のモデルについては古くからアルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・カイェタナとする説が唱えられているが、画家が残したアルバ公爵夫人の素描や肖像画の顔と比較し、あまりに異なる点があるため否定的な意見を述べる研究者も少なくなく、現在では宰相ゴドイの愛人ペピータとする説なども有力視されている。なお本作と『裸のマハ』は宰相ゴドイの手からカサ・アルマセン・デ・クリスターレス、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを経てマドリッドのプラド美術館へと移された。

関連:フランシスコ・デ・ゴヤ作 『裸のマハ』

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カルロス4世の家族


(Familia de Carlos IV) 1800-1801年頃
280×336cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

18世紀後半から19世紀前半期にかけて活躍したスペイン絵画界の偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの代表作『カルロス4世の家族』。本作は1799年にゴヤが宮廷の首席画家へ任命された翌年(1800年)から1年近くかけて制作されたスペイン国王≪カルロス4世≫一家の集団肖像画であり、ゴヤは本作を完成させる為に首都マドリッドから王族一家の住むアランフェスの離宮へ数回通い10点にもおよぶ人物単体の肖像画を習作として制作している。画面中央に実質的な支配者であった王妃(パルマ公フィリポの娘)マリア・ルイサ・デ・パルマが幼いふたりの子供ドーニャ・マリア・イザベル(左)と赤い衣服を身に着けたフランシスコ・デ・パウラを寄せている。幼いパウラの隣には愚鈍とも揶揄された国王カルロス4世が凛々しい姿で配され、その奥には左から(本作中で最も扱いの小さい)アントニオ・パスクアルとドーニャ・カルロータ・ホアキナ、そしてパルマ公ドン・ルイスとその妻ドーニャ・マリア・ルイサが息子である幼児カルロスを抱く姿で描かれている。画面左側に眼を向けてみると、最左端から国王カルロス4世の次男ドン・カルロス・マリア・イシドロ、その隣には鮮やかな青い衣服を身に着ける後のフェルナンド7世、流行していたつけぼくろを付けた国王の姉マリア・ホセファ、そして皇太子の未来の花嫁として顔を背けた若い女性(当時はまだ皇太子の花嫁が誰になるか何も決まっていなかった)が配されており、さらに画面左側奥では深い陰影に包まれた画面に向かうゴヤ自身の姿が描き込まれている。王妃マリア・ルイサは出来栄えに大変満足したと伝えられている本作は、前世紀の大画家ディエゴ・ベラスケスによる王族一家の集団肖像画『ラス・メニーナス(女官たち)』を意識しつつも、形式性や格調性の強調に明らかに作為的な意図を見出すことができる。特に13名にも及ぶ国王一族のわざとらしさすら感じさせる公式的側面の強い平面的配置や、奥行きの無い空間構成、非常に運動性の少ない硬直とした身体描写、それらとは対照的な眩い光を放つ輝きを帯びた色彩描写などには、王族に対するゴヤの真摯で実直な観察眼による忠実的表現を感じずにはいられない。

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マヌエール・ゴドイの肖像
(オレンジ戦争指令官としてのゴドイ)


(Manuel Godoy) 1801年 | 181×268cm
油彩・画布 | サン・フェルナンド王立美術アカデミー

18世紀及び19世紀スペインの中で最も偉大なロマン主義の画家フランシスコ・デ・ゴヤを代表する肖像画作品のひとつ『マヌエール・ゴドイの肖像(オレンジ戦争指令官としてのゴドイ)』。本作はゴヤの芸術性に深い理解を示しその活動を強力に支援した画家のパトロンであり、フランス革命戦争時にスペインへ侵攻したフランス共和国と同国の間で講和条約(バーゼル和約)を交渉、締結したことから平和公爵とも呼称される同国の当時の宰相≪マヌエル・デ・ゴドイ≫を描いた全身肖像画作品である。本作はスペインと隣国ポルトガルとの間で1801年の5月から6月にかけて勃発した通称≪オレンジ戦争(※ゴドイは本戦争の最高指令官であった)≫の勝利を記念し制作された作品で、椅子に腰掛け肘掛に左腕を乗せながら指令書を手にする野営中の宰相ゴドイが画面中央へ描き込まれているが、紅潮した顔や恰幅のよい身体、驕傲的、不遜的にすら感じられる尊大なその姿には当時の王妃マリア・ルイサをも魅了した精悍で色欲旺盛な同氏の性格と内面性がよく示されている。この対象の人間性をも明確に浮き彫りにしたゴヤの肖像画作品は、衰退、破滅へと向かうスペインにおける権力的野心の虚しさや、歴史的な人物の記録的側面としても非常に興味深い。なお厳格なカトリック国家であったため極めて禁欲的な当時のスペインにおいてゴヤが密かに手がけた有名な裸婦作品『裸のマハ』のモデルはマヌエール・ゴドイの愛人ペピータ・テュドーだとする説が有力視されている。

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イサベル・デ・ポルセール


(Isabel de Porcel) 1804-05年
81×54cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

スペインロマン主義を代表する画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた肖像画の傑作『イサベル・デ・ポルセール』。本作はゴヤがスペイン南部の都市グラナダ滞在時にカスティーリャ審議会員アントニオ・ポルセールから受けた親切の返礼として同氏の妻≪イサベル・デ・ポルセール≫をモデルに手がけられた肖像画作品である。画面中央に配されるポルセール夫人イサベルは顔を左側に向けながら、身体を右側に構え、かつ両腕を腰へ当て、その姿には勝気な女傑の印象を強く抱くことができる。またポルセール夫人イサベルの表情に注目してみると大きな黒い瞳を開き、やや厚めの魅惑的な唇を自然に結びながら、白い肌の上で頬が紅潮しており、彼女の表情的魅力を存分に描写されていることが理解できる。さらに肉感的なイサベルが身に着ける衣服として、マハ(小粋な女)の衣服としても知られる黒い薄絹のショール(マンティーリャ)の持つ特有の質感と透過感が絶妙に描き込まれており、スペイン女性としての美を際立たせている。本作から醸し出されるイサベルの情熱的性格や生命力と魅力に満ちた表情には男性を魅了するスペインの女性の色香を大いに感じることができる。また描写手法に注目してもゴヤ特有の内面性をも描き出すかのような大胆で繊細な筆触や精妙な明暗対比の表現は今も観る者を惹きつけてやまない。

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サンタ・クルース公爵夫人


(La marquesa de Santa Cruz) 1805年頃
130×210cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

スペイン・ロマン主義最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの代表作『サンタ・クルース公爵夫人』。本作は画家の重要なパトロンであった第九代オスーナ公爵家の長女で、微笑みの美女として称えられるほか、1801年にサンタ・クルース公爵と結婚した当時21歳の≪ホアキーナ・テリェス・ヒロン≫をモデルに、諸芸術を司る9人の女神ムーサのひとり歌と踊りを司る≪テルプシコラ≫に扮した姿を描いた扮装肖像画作品である。画面中央やや左側へ長椅子へ横たわる姿で描かれるサンタ・クルース公爵夫人は、当時(ナポレオン帝政時代)の最新室内着である大きく胸元の開いた白絹の衣服を身に着け、古代ギリシア風の竪琴(古代風ギター)を傍らに観る者と視線を交わらせている。サンタ・クルース公爵夫人の表情は生気に溢れるというよりも、むしろやや陰鬱でどこか終焉的な影を見出すことができる。さらにそれは人生の終着を意味する冬の前に実る秋の果実≪葡萄≫の冠を頭上に乗せていることでより強調されている。様式としてはフランス新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドの代表作『レカミエ夫人の肖像』を彷彿とさせるほど古典的であるものの、画面前景の明部と画面奥の暗部との不気味な対象性や夫人が身に着ける艶やかな白絹の質感と赤い長椅子の色彩的対比など全体的にどこか死生的かつ陰惨的で、描かれる対象(サンタ・クルース公爵夫人)、さらには画家自身の絵画的方向性や運命性すら感じることのできる独自的な世界観は、今も観る者に強烈な印象を与える。

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マドリード市の寓意


(Alegoría de la Villa de Madrid) 1810年
260×195cm | 油彩・画布 | マドリード市立美術館

18世紀ロマン主義の大画家フランシスコ・デ・ゴヤの代表作『マドリード市の寓意』。対仏独立戦争中に親仏派のマドリッド市からゴヤに依頼され制作された本作は、内紛状態にあったスペイン・ブルボン朝への影響力を強める目的で1809年にスペイン王として即位した≪ホセ1世(本名ジョゼフ・ボナパルト。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの兄)≫を称える記念碑的作品で、当時は同市の市庁舎に飾られていた。画面中央やや左に配される女神の姿で表されたマドリード市の寓意像は同市の紋章である山桃と熊が描かれた盾を右側に携え、左手では2天使が掲げる大型のメダル(メダイヨン)を指差している。さらに画面上部に配される中空を浮遊する天使らはトランペットと月桂樹を手にしており、これらはそれぞれ名声(トランペット)と勝利(月桂樹)を意味している。本作で最も注目すべき点は本日までに6度描き直しがされているメダイヨンにある。当初はホセ1世の肖像画が描かれていたメダイヨンであるが、同王のマドリード市からの退去に伴いカディス憲法(スペイン1812年憲法)の銘文が刻まれ、ホセ1世の再来と共にまた同王の肖像画が描かれるが、ホセ1世の決定的な廃位で再びカディス憲法の銘文が描かれている。さらにスペイン・ブルボン朝直系であるフェルナンド7世の即位時には同士の肖像画が、その後、憲法を賞賛する2種の銘文へと描き換えられた後、現在の1808年5月2日に起こったマドリッド市民によるフランス軍への抵抗事件を記念する≪DOS DE MAYO(ドス・デ・マヨ。5月2日の意)≫に至っている。ゴヤ自身、また後世の画家によって度々修正が加えられている本作には当時のスペインの政治的激動とその歴史が刻まれているに等しく、そのような意味でも特に重要視されている。

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1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘

 1814年
(El 2 de Mayo de 1808. Lucha contra los mamelucos)
266×345cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤによる戦争画の代表作『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』。本作は皇帝ナポレオンが率いるフランス軍(とエジプト人で構成される奴隷傭兵親衛隊)による、スペインへの侵攻と武力統制に対してマドリッド市民が起こした、ソル広場での反乱(抵抗)と暴動の様子を描いた作品である(反乱はその後、対仏独立戦争に発展)。本作は1814年、フランス軍のスペイン国内からの撤退後にゴヤが「ヨーロッパの暴君(ナポレオン)に対する我々スペイン人の輝かしく誉れある反乱の、最も注目すべき英雄的行為の場面を絵画にて永遠に残すため」との嘆願書を摂政府へ提出したことによって制作された作品である。この嘆願書は(画家本人によれば)生活が逼迫していたゴヤが政府へ経済的援助を求めたものでもあった(なおゴヤは戦乱当時、国外脱出を望んでいたとの報告も残されている)。また国王フェルナンド7世の復位・凱旋の記念としてのほか、反乱活動への扇動と鼓舞の意味(プロパガンダ)でも、一連の対仏独立戦争は、民官双方から望まれた画題であり、この対仏独立戦争を画題として数多く作品を制作した当時の画家たち同様、ゴヤは確固たる決意と威信を懸けて本作に取り組んだ。本作はマドリッド市民の反抗と暴動を描いたものであるが、最も特筆すべき特徴は市民とエジプト人親衛隊の戦闘の場面そのものを突起させ描いた点にある。本作には主役となる描写対象は存在せず、画面の中に描かれるのは、ただ勝敗の行方がわからぬ状況で続けられる人々の闘争の姿で、(主となる対象のいない)そこには画家が嘆願書で述べた≪英雄的行為≫が名もなき市民らによって行われたというゴヤの意図がこめられている。なお本作はフランスロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワが1830年に手がけた戦争画『民衆を率いる自由の女神』に強い影響を与えたことが知られている。

関連:ゴヤ作 『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』
関連:ウジェーヌ・ドラクロワ作 『民衆を率いる自由の女神』

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1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺

 1814年
(El 3 de Mayo de 1808. Fusilamientos en la montaña del Príncipe Pío)
266×345cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが制作した、西洋絵画史上、最も有名な戦争画のひとつ『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』。本作は『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』後、1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリッド市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いたものである。処刑は市内の幾つかの場所で行われたが、本場面は女性や子供を含む43名が処刑されたプリンシペ・ピオの丘での銃殺を描いたもので、真贋定かではないが丘での処刑を「聾者の家」で目撃したゴヤが憤怒し、処刑現場へ向かい、ランタンの灯りで地面に転がる死体の山を素描したとの逸話も残されている。銃を構える銃殺執行隊は後ろ向きの姿で描かれ、その表情は見えない。それとは対照的に今まさに刑が執行されようとしている逮捕者(反乱者)たちは恐怖や怒り、絶望など様々な人間的感情を浮かべている。特に(本場面の中でも印象深い)光が最も当たる白い衣服の男は、跪きながら両手を広げ、眼を見開き、執行隊と対峙している。この男の手のひらには聖痕が刻まれており、観る者に反教会的行為に抵抗する殉教者の姿や、磔刑に処される主イエスの姿を連想させ、反乱者の正当性を示しているのである。また画面奥から恐怖に慄く銃殺刑を待つ人々の列の≪生≫、銃を向けられる男たちの≪生と死の境界線≫、血を流し大地に倒れ込む男らの死体の≪死≫と、絵画内に描かれる≪生≫と≪死≫の強烈な時間軸は観る者の眼を奪い、強く心を打つ。ゴヤは本作を含む対仏反乱戦争を画題とした油彩画を4作品制作したと考えられている(4点中2点『王宮前の愛国者たちの蜂起』『砲廠の防衛』は現在も所在が不明)ほか、版画集≪戦争の惨禍≫の中で本場面を画題とした版画も制作された。なお本作は印象派の巨匠エドゥアール・マネが『皇帝マクシミリアンの処刑』手がける際に強いインスピレーションと影響を与えたことが知られている。

関連:ゴヤ作 『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』
関連:エドゥアール・マネ作 『皇帝マクシミリアンの処刑』

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巨人

 (El coloso) 1808-1812年頃
116×105cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

長い間、スペイン・ロマン主義時代の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの作品とされてきた19世紀スペインの最も謎多き作品のひとつ『巨人』。かつては『パニック』とも呼称され、近年までゴヤの代表的な作品と見做されていたものの、2009年1月下旬、所蔵先であるプラド美術館は表現、様式、署名などを綿密に検証をおこなった結果、本作を弟子、又は追随者の作品であると結論付ける報告書が公表され、現在ではほぼゴヤ以外の作品として位置付けられている本作は、皇帝ナポレオンのスペイン侵攻に対してマドリッド市民が起こした反乱に端を発した≪対仏独立戦争≫の暴力、恐怖、混乱、そして(民衆の)抵抗を象徴的に表現した作品であると考えられている。画面上部にはスペインとフランスの国境に位置するピレネー山脈を連想させる荒涼とした山々が描かれているが、その中へ突如として表れたかのようにひとりの裸体の巨人が拳を硬く握り締め、立ち塞がるように描き込まれている。前景となる画面下部には人々や馬車、牛やロバなどの家畜が無数の群れとなって逃げ惑う情景が描かれている。本作の最も注目すべき点であり、また最も深き謎の部分でもある、描かれる巨人の解釈については、一般的にはファン・バウティスタ・アリアサの風刺詩「ピレネーの予言」の視覚化、ナポレオンへの恐怖、スペイン国民の守護、さらには戦争そのものの否定の象徴などの説が有力視されているものの、他にも当時の民衆歌の歌詞にある「見よ、青褪めた巨人が立ちがらんとするのを」の具現化説など諸説唱えられており、更なる研究が期待されている。

関連:銅版画 『巨人(エル・コローソ)』

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羊の頭のある静物(羊頭とあばら骨)


(Nature morte à la tête de mouton) 1808-1812年頃
45×64cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロマン主義随一の画家フランシスコ・デ・ゴヤを代表する静物画作品のひとつ『羊の頭のある静物(羊頭とあばら骨)』。画家の財産目録に記された12点の連作厨房画(ボデゴン)の1点で、本作群を相続した画家の孫マリアーノ・ゴヤからマドリッド近郊の伯爵別荘家の食堂の装飾画として売却され、さらにその後、パリの画廊を経て1937年にルーヴル美術館が購入した来歴をもつ本作は、皮を剥がれた≪羊の頭部と胸部(あばら骨)≫を主題に描いた、画家の内面的本質を表したかのような粗野しく物悲しい作品である。画面左側には羊の頭部が配されており、その落とされた切り口は荒々しく皮も剥がされ側面部では顔面の筋肉と脂肪が見えている。さらにこの羊には、まるで全てを達観、諦観するかのようなどんよりとした瞳と欠けた歯が印象的な口の表情による≪ヴァニタス(人生の空しさ)≫という死生的寓意を見出すことができる。そして画面中央と右側には羊の頭部とほぼ同等の大きさの胸肉(あばら骨)が、計算された構成とは程遠く、在るがままのように2つ配されており、その素朴ゆえの量塊感は観る者を強く惹きつける。あまりにも実直で理想を除外した写実主義的描写にはゴヤの美を超越する絵画的本質を感じることができる。なお羊の頭部の頬下には流れた羊血で「goya(ゴヤ)」と記されている。

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バルコニーのマハたち


(Majas en el Balcón) 1808-1812年頃
162×107cm | 油彩・画布 | 個人所蔵(スイス)

18世紀スペインの偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤを代表する作品のひとつ『バルコニーのマハたち』。ゴヤの妻が1812年に死した際に制作された財産目録に記載される本作は、17世紀オランダやスペインで流行した≪窓辺の女たち≫的主題作品で、異論も少なくないものの同時期にゴヤが手がけた『バルコニーのマハとセレスティーナ』との対画と考えられている。画面中央へ配される2名の≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)と呼ばれる着飾った女たちは、画面最手前として描かれるバルコニーへ寄り掛かりつつ、魅惑的な視線を観る者(対者)へ向けながら小声で何か話をしている様子である。彼女らの豊満な肉体美を強調するかのように胸が肌蹴た身に着ける衣服や手にする扇子などから、この両者が娼婦であることを容易に連想することができる。そして娼婦らの後方で一段階暗く描き込まれる2名の男たちは、その怪しげな風貌や様子からそれぞれの斡旋人であることを窺い知ることができる。本作の単純な構図を用いながらも物語性や世俗的社会性を感じさせる作品構成も特に注目すべき点であるが、ひとつの絵画として本作を観覧した場合、強烈ながら絶妙なバランスを保つ光の明暗対比や、娼婦らが身に着ける衣服による白と黒のコントラストの秀逸さに我々は目を奪われるものである。なおスペイン旅行中に本作を観た印象派の先駆的存在エドゥアール・マネは本作から強く影響を受け、同氏の代表作『バルコニー』を制作したと考えられているほか、ニューヨークのメトロポリタン美術館には本作と同主題同構図による発展型作品が所蔵されている。

関連: 『バルコニーのマハとセレスティーナ』
関連:エドゥアール・マネ作 『バルコニー』

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自画像

 (Autorretrato) 1815年
51×46cm | 油彩・板 | 王立サン・フェルナンド美術アカデミー

ロマン主義随一の巨匠であり、近代絵画の扉を開いた創始者的存在でもある画家フランシスコ・デ・ゴヤ作『自画像』。マドリッドの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに所蔵される本作は画家が生涯に度々手がけてきた≪自画像≫の中でも特に代表的な作例のひとつであり、ゴヤが69歳の頃に制作された作品である。本作が制作された頃、ゴヤは画家としての最高の地位である宮廷首席画家にまで登りつめていたものの、既に聴覚を失って(画家は1790年代半ばに大病を患い、回復するものの聴覚を失った)おり、さらに1810年頃からの体調不良によってしばしば病床に臥してしまう状態にあった。また数年前のフランス軍によるスペイン侵攻など暗い時代背景もあり、本作に描かれるゴヤ自身の姿は、25歳頃45歳頃など出世欲に従い、地位の向上に邁進していた頃の自画像作品と比較し、明らかにメランコリックで、鬱蒼とした雰囲気を携えている。中でも苦痛や幻滅の深淵へと引き込むかのような、疲憊し暗く沈んだ黒南風的な瞳とその表情は、観る者を強く惹きつける。しかしながら本作の69歳とは思えないほど若々しく描かれる画家の姿は、聴覚を失ったからこそゴヤが見出した、出世以外の生きる目的や意欲が表れたものであるとの解釈も唱えられている。いずれにしても、画家の苦悩やそれにおける精神的内面・心情が顕著に示されている本作は、画家が数多く手がけた人物画作品の中でも特に重要な作品に位置付けられている。なおプラド美術館には近年洗浄がおこなわれた本作の別ヴァージョンが所蔵されている。

関連:1771〜1775年頃制作 『自画像』
関連:1791〜1792年頃制作 『アトリエの自画像』
関連:プラド美術館所蔵 『自画像(別ヴァージョン)』

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聖フスタと聖ルフィーナ(聖ユスタと聖ルフィナ)


(Santas Justa y Rufina) 1817年
309×177cm | 油彩・画布 | セビーリャ大聖堂

18世紀後半から19世紀前半まで活躍したスペインロマン主義の大画家フランシスコ・デ・ゴヤ後期を代表する宗教画作品のひとつ『聖フスタと聖ルフィーナ(聖ユスタと聖ルフィナ)』。ゴヤの友人で美術史家でもあったセアン・ベルムーデスの仲介により、セビーリャ大聖堂から制作依頼を受け、同聖堂の祭壇画として手がけられた本作は、3世紀セビーリャ出身の陶工姉妹で、ローマ司祭の命令である異教礼拝用の供物(陶器)製作を拒んだことから同地で殉教するほか、1504年に同地で起こった大地震の際には突如現れ倒壊しかかったヒラルダの塔(セビーリャ大聖堂に付設する大鐘楼)を救ったという伝説でも知られている≪聖フスタと聖ルフィーナ(聖ユスタと聖ルフィナ)≫を主題とした聖人画作品である。画面中央左側には緑色の衣服を身に着ける聖フスタが、右側には茶褐色の衣服を身に着ける聖ルフィーナが配されており、それぞれの手には陶器と殉教を象徴する棕櫚(しゅろ)の葉が持たされている。また聖フスタの足元には異教への抵抗(加えて陶工)を象徴をする壊れた古代ローマの女神像が、聖ルフィーナの足元にはスペインの寓意像とする獅子(ライオン)が従順に足を舐める姿で描き込まれている。画家自身の署名の後に「セサール・アウグスターノ(セビーリャ出身)の国王の主席画家」との銘が記されていることからも、ゴヤ自身、確かな手ごたえを感じていたであろうことが(本作の)卓越した人物描写や光源処理から窺い知ることのできる本作は、事実、セビーリャ大聖堂へと納品された際、かなりの好評を得たことが書簡に残されている。

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鰯の埋葬

 (Entierro de la sardina)
1812-19年頃 | 82.5×52cm | 油彩・画布
王立サン・フェルナンド美術アカデミー(マドリッド)

スペイン・ロマン主義最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ作『鰯の埋葬』。制作の意図や目的は不明であるものの、画家の有力なパトロンのひとりであったマヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラーダが旧蔵していた本作は、毎年2月上旬、四旬節(レント)を向える謝肉祭(カーニバル)最後の3日間にマドリッドでおこなわれるスペインの伝統的な祝祭≪鰯の埋葬≫に画題とする制作された作品である。画面中央へは(ある種の)不気味さすら感じられる笑い顔の描かれた大旗を囲みながら、動物、司祭、アルルカン(道化師)、兵士、死神など様々な仮装をした市民たちが、祈り、断食、慈善など禁欲と節制の日々が始まる四旬節に備えて贅や愚行・享楽への最後の告別を目的に嬉々と踊りあかしている姿が躍動的に描き込まれている。その様子は喧騒と狂乱そのものであり、人々の狂気染みた雰囲気は否が応にも観る者の眼を惹きつける。このある種の集団的興奮状態にある群衆の様子には推定制作時期の対仏独立戦争の影響も見出すことができ、画家の社会的情勢と集団化した下級市民層への関心の高さを窺い知ることができる。本作の制作年代については古くから画家の銅版画集との関連性が指摘されてきた為、1812年頃を推測されていたものの、明確な根拠が無いため断定はされておらず、おおよそ1812-1819年頃(又は1812-1814年頃)に位置付けるのが一般的である。

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聖ホセ・デ・カラサンスの最後の聖体拝領


(Última comunión de San José de Calasanz) 1819年
250×180cm | 油彩・画布 | エスコラピオス学院聖堂

スペイン・ロマン主義の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤ最後の宗教画作品『聖ホセ・デ・カラサンスの最後の聖体拝領』。マドリッドのエスコラピオス学院の聖堂祭壇画として制作された本作は、画家と同郷となるアラゴン州出身の聖人(※さらにゴヤの存命中となる1767年に列聖された)で、教育機関(学校)≪エスコラピオス(ピアリスト会)≫の創立者兼教育者としても知られる≪ホセ・デ・カラサンス≫が91歳の時に臨終を向かえる直前、人生最後の聖体拝領の儀をおこなう場面を主題として描かれている。画面中央へ配されるホセ・デ・カラサンスは司祭の前で跪き、眼を閉じながら聖餅(プロスフォラ)を司祭から賜っている。カラサンスの頭上には光輪が描かれ、さらにその上部には父なる神の意思を示すかのように一筋の光がカラサンスへと射し込んでいる。聖人と同郷であることから、「フランシスコ・デ・ゴヤは同郷人の為に、何かを捧げねばなりません」と本作の制作画料をほぼ返却したとの書簡も残されている本作の厳粛かつ荘厳な雰囲気と聖人の聖性を表したかのような穏やかで安らぎに満ちた表情との対比は秀逸の出来栄えであり、さらに聖人の周囲へ配されるエスコラピオス修道院の学童や教師らの敬虔な姿が主題と相乗的な効果を発揮している。なおエスコラピオス学院は本作に描かれる聖人ホセ・デ・カラサンスを祀っている修道院で、ゴヤも少年期にこの修道院で学んでいたことが知られている。

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ゴヤとアリエータ医師


(Goya curado por el doctor Arrieta) 1820年
114.6×76.5cm | 油彩・画布 | ミネアポリス美術館

ロマン主義の偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの個人に対する贈呈作品のひとつ『ゴヤとアリエータ医師』。本作はゴヤが1819年にマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘≪聾の家(聾者の家)≫へ移り住んだ翌3月に、自身3度目となる重病(腸チフス。チフス菌による感染症の一種)に罹り倒れるものの、画家の主治医であったアリエータ医師の迅速な対応によって一命を取り留めたことに対する献辞として制作された作品である。画面中央へ描かれる主治医アリエータは腸チフスによってぐったりと倒れたゴヤを抱きかかえる様に起こし、グラスへ入れられた煎薬を飲ませようとしている。その高揚としながら実直である種の穏やかさすら感じさせる医師の表情や姿態には、この瀕死の画家を救わんとする態度を明確に感じることができ、さらにアリエータが身に着ける衣服は希望を象徴する緑色で描き込まれている。一方、病に倒れるゴヤは血色が失せた土気色の顔をだらりと外側へ向け、力なく医師の処置を受けているが、その姿は死の直前にある様を容易に連想させる。ゴヤと医師、ほぼ正面から捉えられる絵画構成や位置関係、そして後の「黒い絵」に通じる老い、病気、死という主題を大きな明暗の対比と簡潔な画面によって表現される本作には3度目の重病から復帰して、なお衰えない画家の芸術に対する情熱と独創性を見出すことができる。また画面背後には3名の頭部を確認することができ、特に左端に配されるアリエータ(又は司祭)に類似する頭部の描写進捗の状況から本作には油彩習作とする説も唱えられている。なお本作の下部には「ゴヤ、友人アリエータへ感謝を込め〜」と医師に対する献辞(銘文)が記されている。

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運命の女神たち


(Las Parcas (El destino)) 1821-23年
123×266cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

ロマン主義の偉大なる巨匠、18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤ晩年期の連作群≪黒い絵≫より『運命の女神たち』。ゴヤがマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘≪聾の家(聾者の家)≫2Fサロンの壁画として制作された本作は、ギリシア神話で人間の運命を決定する三女神ラケシス、クロト、アトロポスの≪モイライ≫を主題とした作品で連作黒い絵の中でも特に象徴的・記念碑的傾向を感じさせる。画面のほぼ中央では新生児から生命の糸を創出しているかのような仕草をみせる、人型の物から黒糸を曳き測る女神ラケシスが描かれており、その背後では女神クロトがレンズを片手に運命の糸を紡ぎ割り当てする用意を示している。そして右端では女神アトロポスがその終焉で糸を断ち切らんと待ち構えている。ここで注目すべきは女神クロトと女神アトロポスの間に配される正面を向いたひとりの人物で、モイライ姉妹(運命の三女神)が司る運命を背負う(又は運命に捕らわれる)人間の、さらには暗い動向がなお続いていた自身や国そのものの象徴的存在と捉えることができる。

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サン・イシードロへの巡礼


(La romería de San Isidro) 1821-23年頃
140×438cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

ロマン主義の偉大なる巨匠フランシスコ・デ・ゴヤの個人に対する贈呈作品のひとつ『サン・イシードロへの巡礼』。1819年の2月にゴヤがマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入し移り住んだ別荘≪聾の家(聾者の家)≫の壁画のひとつとして1階長壁面へ描かれた本作は、マドリッド出身の農夫であり同街の守護聖人としても知られる≪イシードロ(イシドルス)≫が近郊の泉から水を引き旱魃(かんばつ)を回避させたという奇跡を主題とした作品で、対の作品として『魔女の夜宴』が描かれている。マドリッド市民は毎年5月15日を祝日に制定し、この奇跡に基づき巡礼としてマンサナレス河畔へメリエンダ(ピクニック)をおこなっており、本作に描かれる光景もそれに准じているのではあるが、その印象たるや牧歌的な様子は皆無であり、陰鬱で狂々とした雰囲気が全体を支配している。画面中央から左側にかけて描かれた泉へ巡礼に向かう民衆の姿は、どこか狂気染みた表情を浮かべ、奏でられる音楽に合わせ歌う様子まるで絶望の淵に立たされた狂信的な人間を容易に連想させる。さらにこの狂乱的な最前景の人々とは対照的に列を成す数多くの中景の人々らの表情には諦観と陰鬱が感じられ、その感情的対比には旋律を覚えさせられる。本主題はゴヤが若い頃にも手がけているが、画面全体を絶望が覆うかのような暗く鬱蒼とした本作の光景には画家独特で見据えた国内の現状と自己の内面性の幻想化を見出すことができ、観る者を強く惹きつける。なお画面右側にはマドリッド王宮やエル・グランデ聖堂など同市を展望することができる。

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我が子を喰らうサトゥルヌス(黒い絵)


(Saturno devorando a su hijo) 1820-23年頃
146×83cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の父との異名を持つロココ・ロマン主義時代の画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた、西洋絵画史上、最も戦慄を感じさせる問題作『我が子を喰らうサトゥルヌス(黒い絵)』。画家が1819年の2月にマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘≪聾の家(聾者の家)≫の壁画のひとつとして別荘一階食堂の扉の右側に描かれた本作の主題は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれた6番目(末弟)の巨人族で、ローマ神話における農耕神のほか、土星の惑星神や時の翁(時の擬人像)としても知られるサトゥルヌスが、我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子たちを喰らう逸話≪我が子を喰らうサトゥルヌス≫の場面である。本作はバロック時代を代表する巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス同主題の作品から強い影響を受けたと推測されているが、ルーベンスの作品と比較すると明らかに神話性が薄まっている。サトゥルヌスの姿も強烈な光による明確な明暗対比によって痩せ衰えた身体が浮かび上がるように描かれており、また幼児の肉体から流れる生々しい血液の赤い色の効果も手伝って、怪物的かつ幻想的でありながらも、さも現実でおこなわれているかのような感覚を観る者に与え、食人的行為(カニバリズム)の異常性が強調されていることに気付く。さらに1870年代におこなわれた壁面から画布への移植作業の際に撮影されたX線写真から、制作当時はサトゥルヌスの男性器が勃起した状態で描かれていたことが判明している。これはサトゥルヌスが生命を奪い取る存在としてだけではなく、生命を与える存在であることも同時に意味している。また少数ではあるが食人という行為によって、人間の残酷性・特異性・異常性のほか、理不尽性や不道徳などを表現したとの解釈も唱えられている。なお、現在はサトゥルヌスの下腹部は黒色で塗り潰されており、この処理の理由に関しては移植作業の際に性器部分が剥落したとする説や、あまりにもおぞましく猥褻である為に修復家が手を加えたとする説が有力視されている。本作には晩年期に近づいていたゴヤが当時抱いていた不安、憂鬱、退廃、老い、死、など時代に対する思想や死生観、内面的心情が反映されていると考えられているものの、根本部分の解釈は諸説唱えられており、現在も議論が続いている。

関連:ルーベンス作 『我が子を喰らうサトゥルヌス』

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砂に埋もれる犬(黒い絵)


(Un pero semihundido en arena) 1820-23年頃
146×83cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

スペインロマン主義最大の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤを代表する連作、通称≪黒い絵≫の中の1点『砂に埋もれる犬(黒い絵)』。画家が1819年の2月にマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘≪聾の家(聾者の家)≫の壁画のひとつとして2階サロンに描かれ、1870年代に壁面の漆喰ごと画布に写された本作は、荒野とも砂地とも見ることができる地の中へ埋もれるように犬を描いた心理的象徴性を強く感じさせる作品で、かつては「流れに逆らう犬」とも呼ばれていたことが知られている。画面下部へ土にも似た濃茶色の砂に埋もれ頭部だけが僅かに見える一匹の犬が描かれているが、その表情はまるで希望に縋り助けを求めるかのような物悲しげな印象を観る者に与える。さらに砂地より一段階明瞭な色彩である黄土色の背景には何も描き込まれず、唯々虚空的な空間が広がるのみである。本作のあたかも犬を飲み込むかのような砂地やその流れは生と死の運命の象徴と考えられており、そのような点から本作の解釈には政治的にも経済的にも不安定な状態であったスペインそのものの象徴とする説、混迷が続く祖国スペインに翻弄される民衆とする説、大病から回復するも明確に死を意識する画家自身の象徴とする説など様々な説が唱えられているものの、その真意はもはやゴヤ本人のみが知るところである。

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ボルドーのミルク売りの少女


(La lechera de Burdeos) 1825-1827年頃
74×68cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

激動の時代を生きたスペイン絵画界の大画家フランシスコ・デ・ゴヤが最晩年に制作した傑作『ボルドーのミルク売りの少女(ボルドーのミルク売り娘)』。1825年から死の前年となる1827年の間に制作された、ほぼ確定的にゴヤの絶筆として考えられている本作の主題については画家の娘ロサリオの肖像とするなど一部の研究者らから異説も唱えられているものの、一般的にはゴヤが最晩年の4年間を過ごしたフランス南西部の都市ボルドーで≪ミルク売りをする娘≫を描いた作品であるとされている。画面中央に配されるミルク売りの少女は穏やかな朝の陽光に包まれ輝きを帯びながら、ロバの背に乗り牛乳を売りに近隣へと向かっている。画面左下に牛乳の容器が確認できるものの、それ以外の要素は全く描かれておらず殆どミルク売りの少女のみで構成される本作は、最晩年の画家の作品とは考えられないほど意欲的な技巧的挑戦性に溢れている。画面左上から右上にかけて黄色から青緑色へと変化する繊細な朝の陽光の描写を始め、横顔から捉えられるミルク売りの少女の生命感に溢れる様子、身に着けるやや肌が透けた肩掛けの複雑に構成される色彩、画面下部のスカートに用いられる濃紺と陽光との対比、そして自由闊達な筆触や、おぼろげな形状描写などに示される表現的特長は、宮廷画家時代のゴヤの表現様式とは明確な差異を確認することができる。さらに本作に示される表現的特長は19世紀後半に一大旋風を巻き起こす印象派の技法に通じるものであり、故に本作は印象主義の先駆とも見做されている。また本作は若き頃の己の野心と絶頂期での大病、宮廷の堕落、フランス軍によるスペイン侵攻など激動の時代と人生を過ごし、そこで人間の表裏を克明に描いてきたゴヤが、その生涯の中で辿り着いた≪光≫や≪最後の救い≫として、さらには老いた自身に対する≪若さ≫への渇望としての解釈もおこなうことができる。本作はゴヤの死後、画家が最晩年を共に過ごしたレオカディア・ソリーリャが相続し、ゴヤの庇護者であったムギーロ伯爵へと売却された(※ゴヤは遺言の中で「金1オンス以下では売らぬよう」と本作売却に関する指示を残している)。

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