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レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn
1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期
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17世紀のオランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠。スポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比や、赤褐色又は緑褐色を基調とした輝くような色彩、場面状況を明確に伝達する劇的な運動性、登場人物に示される深い精神性を帯びた表情などが大きな特徴。1606年7月15日、レイデンで中流階級の家柄の9番目の子息として生まれる。修行時代はアムステルダムでピーテル・ラストマンに師事し、同氏の下でバロック様式を学んだ後レイデンで独立、同地で最初の門弟となるヘリット・ダウなどの有能な弟子を育てる。1632年にアムステルダムへと移住し、代表作『テュルプ博士の解剖学講義』で自身の名声を確立。1634年に裕福な美術商の娘サスキアと結婚(1642年に死別)、以後、大規模な工房を構え弟子たちと共に数多くの肖像画、宗教画、神話画など様々なジャンルの作品を手がける。この為、一時は1000点以上の作品がレンブラント作とされるも、現在はレンブラント・リサーチ・プロジェクトなどを始めとしたレンブラント作品の研究や調査が進み、その多くが弟子の手が加わる作品、又は画面全てが弟子の手によるもので、署名のみレンブラントが記した作品であることが判明している。1642年に手がけた『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』で登場人物も平等に描かなかった為、依頼主たちから大変な不評を招くも、物語性の高い作品自体は高評価を得た。この一件で注文が激減し、破産など画家の没落を招いたとする逸話は伝説であり、現在では、レンブラントの没落はそれまでの散財やオランダ国の景気の急速な減退による資産運用の失敗、サスキアの死後に雇った家政婦らとの女性関係のもつれからであることが通説である。しかしこの没落がレンブラントに与えた影響は大きく、身内の度重なる死も手伝って、これ以降の画家の自画像作品に代表される、自己分析による精神性を携えた内向的傾向が顕著になった。また1643年から庶民的とされる版画の制作を開始。レンブラントは生涯にわたり作品を手がけ続け、その評価は晩年期にあっても国際的であったとする説が一般的である。
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